アナログ派の愉しみ/本◎大島弓子 著『たそがれは逢魔の時間』

妖精と娼婦
ふたつの顔を使い分けて


少女マンガの主人公が少女たちにとって自己を写しだす鏡の役割を果たすものなら、大島弓子の『たそがれは逢魔の時間』(1979年)の「邪夢(じゃむ)」と名乗る女子中学生もまた、その典型のひとりだろう。

 
秋から冬へ移ろう時期の日没のころ、長い髪に黒地のセーラー服をまとった彼女は、アクセサリー・ショップのショーウィンドウを覗き込んだり、公園の木立ちで気ままに鬼ごっこしたり。やがて夜の闇が降りてくると、彼女はネオンが彩るホテル街に出没して幼い肉体を売春に差しだして憚らない。妖精と娼婦。そんなふたつの顔を使い分けることで、世間の男どもを思いのままに操っていく。

 
 邪悪の邪
 夢想の夢
 
 あまくとろける
 いちごジャム
 
 あなたの次の
 ことばはなあに

 
彼女が口ずさむ呪文に誘われて、一流会社の部長・道端譲(みちはたゆずる)は分別ざかりの年代にありながら現実離れした世界へと迷い込んでいく。四半世紀も前の初恋の相手の面影を「邪夢」に重ねて、かつて渡しそびれたペンダントをプレゼントし、失われた過去を取り戻そうとするかのようにあとを追いまわす。そのあげく、ついには妻から離婚を言い渡される羽目に……。

 
こうした体たらくは、決してかれだけにかぎった話ではあるまい。男どもにとって初恋の記憶とはたいていの場合、少年の日に甘ったるい恋情を向けた少女の、その羽根をつまんでピンで標本箱に留めて仕舞い込んできたようなものではないか。それが「邪夢」の出現によって、ただの美しい所有物だったはずの標本がよみがえり、目の前で羽根を動かして飛び立とうとしはじめるのだ。

 
だが、この期におよんで、道端譲は同じ学校の下級生だった初恋の相手がすでに10年前に死んでいたことを知らされる。過去の機縁は幻と消え、現在の誘惑も空しくなる。そんな寄る辺ない孤独に苛まれながら、かれは日が落ちるころあいになると、やはり「邪夢」を探し求めてうろうろと街をさまよう。しかし、もはや長い髪と黒地のセーラー服の姿が現れることはなかった。

 
こうして、大島弓子のマンガは思春期を迎えた少女たちに対して、自己の内面には妖精と娼婦のふたつの顔があり、それらを使い分けることによって男どものひとりよがりを手玉に取ることができる、と教えてきたわけだろう。おそらくは、いくばくかの悲哀をもって――。

 
かく言うわたしにも、そんな初恋の記憶がある。学校から帰宅する夕暮れの駅舎で、上り下りのレールをはさんで反対側のプラットフォームからだれにも気づかれぬよう、そっとこちらに手を振ってみせた可憐な影法師……。彼女は果たして妖精だったのか、娼婦だったのか。この年齢になったいまでさえ、たそがれどきにもしふたたび向かいのプラットフォームで小さな手のひらが舞おうものなら、わたしはたちまちあの過去の世界へと引きずり込まれてしまうに違いない。
 

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?