アナログ派の愉しみ/音楽◎レオンカヴァッロ作曲『道化師』

かれがナイフを振りかざした
本当の相手とは


「黄金のトランペット」の異名を誇ったイタリアの伝説的なテノール歌手、マリオ・デル・モナコの持ち役を眺めていて面白いことに気づいた。ヴェルディ作曲『イル・トロヴァトーレ』(1853年)のマンリーコと『オテロ』(1887年)のタイトル・ロール、ビゼー作曲『カルメン』(1875年)のドン・ホセ、プッチーニ作曲『マノン・レスコー』(1893年)のデ・グリュー……と、いずれも愛する女性への激しい嫉妬心から身を持ち崩す役柄なのだ。こうしてみると、嫉妬の雄叫びこそが「黄金のトランペット」を最も輝かせたのかもしれない。そのなかでもひときわ強烈なのは『道化師』のカニオだろう。

 
イタリアの作曲家、ルッジェーロ・レオンカヴァッロが実際に起きた殺人事件をヒントに、自分で書いた台本に曲をつけて1892年、35歳のときに完成したこの作品は、ヴェリズモ(現実主義)・オペラの代表作といわれている。そのことは、上記の他の作品がいったんは女性との蜜月を味わったあとの男性の嫉妬心を描くのに対して、こちらではもはやそうした相思相愛の幻想などハナから蹴散らして、ひたすら夫と妻が憎悪をぶつけあう絶望のありさまを追っていくところにも見て取れる。

 
1865年8月15日の聖母被昇天祭日の夕刻、イタリア暗部のカラブリア地方の村外れ。第1幕では、ドサまわりの芝居一座が上演の準備をしていると、座長で道化師のカニオは妻のネッダに愛人がいるらしいとの告げ口を耳にする。果たして、彼女が若い男と逢引きするのを目撃して問い詰めたものの相手は頑として口を割らず、こうしたなかでもいつもどおり道化師の扮装をしなければならない宿命を呪って、かれは有名なアリア「衣裳をつけろ!」を絶唱する。第2幕では、芝居の舞台上で浮気な娘の役を演じるネッダに向かって、いつしか虚構と現実の境界を見失ったカニオは「おれはもう道化師じゃない、男の名前を言え」と執拗に迫り、妻があくまで拒むとその胸をナイフで突き刺し、さらにそこへ飛び込んできた愛人の青年シルヴィオの胸も貫く。そして、「これで喜劇は終わりました!」と観客に告げるのだった……。

 
この道化師カニオはデル・モナコの当たり役として評判が高かっただけに複数のレコードがつくられたうえ、1961年10月に「イタリア歌劇団」が行った来日公演をNHKがライヴ収録したフィルムも残されていて、古いモノクロームの画面とはいえ、かれの全盛期の舞台姿を目の当たりにすることができるのは僥倖だ。それを観ると、もう第1幕に登場したときからカニオはただならぬ不吉な表情を刻んで「衣裳をつけろ!」では怪獣のように咆哮し、第2幕に入ると見開いた両眼は完全に狂気の光を漲らせてまっしぐらに破滅へと突進していくのだ。

 
いやはや、開いた口がふさがらない。わたしだってかつてさんざん嫉妬心に弄ばれて、その苦い味わいはよく知っているつもりだけれど、だからと言って、しょせん男と女のあいだの行き違いでしかないものについて、ここまで一途に自己を燃やし尽くすことはとてもありそうもない。これは一体、なんなのだろう? あのジークムント・フロイトは論文『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』(1922年)において、「嫉妬は悲哀とおなじように、ともに正常ということができる情緒の状態である」と断ったうえで、こう述べている。

 
「嫉妬を多くの人は両性的に体験する、というのは、男性の場合を例にとると、愛する女性を失う苦痛と恋がたきの男性への憎悪とを体験するほか、無意識のうちに愛した男性を失う悲哀と競争者としての女性への憎悪が強まることがある。これはいつも注意しておかなくてはならないことである。私の知っているある男は嫉妬の発作にひどく悩んでいて彼のいうところによると、いちばん苦しんだのは、不実な妻のゆえにしていたことであった。そのとき彼が感じた救われない感じや惨めな自分の姿は、ちょうどプロメテウスが禿鷹の餌食にされ、しばられて蛇の巣窟にほおりこまれたようなものであったが、彼自身これを少年の頃に彼をおそった同性愛の体験をしたときの印象に関連づけていた」(井村恒郎訳)

 
なるほど、カニオはネッダに疎外されて舞台上で自涜の袋小路に追いつめられ、禿鷹の餌食にされて蛇の巣窟でのたうつような苦痛に喘ぎながら、不実な妻よりも、むしろ(しきりに「男の名前を言え、男の名前を言え」と繰り返して)愛人の青年シルヴィオへの性的な関心と執着に急き立てられて、そのナイフの刃先を振りかざしたのだったとするならば、開いた口がふさがって納得できるような気がするのだ。レオンカヴァッロの音楽とデル・モナコの歌唱は、男性の嫉妬心が秘めるどす黒い闇を暴きだしてみせたと言えるだろう。わたしの嫉妬心などは児戯のたぐいだったのに違いない。


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