アナログ派の愉しみ/映画◎西川美和 監督『すばらしき世界』

逃げなければ
生きていけない社会とは


西川美和監督の映画『すばらしき世界』(2021年)が実在の人物をモデルにしていることをあとから知って、わたしは意表を突かれる思いがした。一見して、てっきり世界文学史上の名作を翻案したものとひとり合点していたからだ。

 
こんな内容だ。元ヤクザの三上(役所広司)は、乱暴なチンピラを殺した罪により、13年の服役を終えて旭川刑務所から出所してきた。幼いころ母親に捨てられ、事件後に妻子とも別れて身寄りがないたま、身元引受人の庄司弁護士(橋爪功)を頼って上京し、アパートの小さな部屋で暮らしつつ社会復帰をめざすことに。前科者に対する世間の冷たい風当たりに見舞われる一方、町内会長をつとめるコンビニ店長や、生活保護にあたってのケースワーカー、また、ドキュメンタリー番組の取材をもくろむテレビのディレクターといった面々が寄りつどって、かれの更生に力を合わせるようになる。

 
しかし、高血圧の持病がありながら血の気に逸る三上は、チンピラ相手に暴力沙汰を起こして出奔したのち、かつての極道の兄貴分のもとでふたたびヤクザ稼業に堕ちかけたものの、姉御が救いの手を差しのべてカタギにとどまることができた。そんなかれをあらためて迎え入れ、庄司弁護士が前科者と承知のうえで雇ってくれる介護施設を斡旋して、見習い職員としての仕事がはじまり、離別した妻とも連絡が取れた矢先、まわりの善意の人々に取り巻かれながら、三上はアパートの部屋であっけなく死んでしまう。勤務先の発達障害の青年から贈られたコスモスの花を手にして――。

 
こうしたストーリーの流れから、わたしがドストエフスキーの小説『白痴』(1868年)を連想したのも不思議ではないだろう。主人公のムイシュキン公爵は重度のてんかんの発作をともなう精神疾患のためスイスのサナトリウムで暮らしてきたが、ようやく症状が治まったとして祖国のペテルブルクに帰還する。そこでは遠縁にあたる貴族の家庭に出入りして令嬢と親しくなったり、莫大な遺産を相続した無頼漢と義兄弟の契りを結んだり、目がくらむほどの絶世の美女と愛しあったり……と、波瀾のエピソードを積み重ねたあげく、かれは無惨にも人格崩壊を起こしてサナトリウムへ舞い戻ることに。善意の人々がひしめきあう世間において主役にはなれても、平凡な日常を生きる脇役にはなりきれずに敗北したムイシュキン公爵の姿は、そのまま元ヤクザの三上にも重なるものではないだろうか。こうしたドラマツルギーは映画作家の食指を動かすらしく、あの黒澤明監督も翻案による『白痴』(1951)を手がけたが、わたしには西川監督のこの作品のほうがずっと説得力が大きい。

 
三上が介護施設で新たな門出を踏みだすことになり、かれのサポーターたちがアパートに集まってささやかな祝宴を開いたとき、庄司弁護士はこんなはなむけの言葉を与えた。

 
「刑務所じゃ揉めても割って止めに入ってくれる。でも、ほったらかしにされているうちに、気がついたら自分の席がなくなっているのが社会さ。本当に必要とするもの以外切り捨てていかないと、自分の身が守れないから。すべてにかかわれるほど人間は強くないんだ。逃げるのは負けじゃないぞ。勇気ある撤退なんて言葉があるだろ、逃げてこそまたつぎに挑めるんだよ」

 
逃げなければ生きていけない社会――。ムイシュキン公爵はスイスのサナトリウムに、三上は旭川の刑務所に身を置いたままだったら、おそらく変哲のない日々を送りながらもっと人生を長らえることができたろう。だが、いったん世間に繰りだして、要領よく逃げまわる術を持たず一途に渉りあおうとしたとたん、たちまち息の根を止められてしまうとは、何もかれらにかぎった話ではないはずだ。ドストエフスキーが凝視した19世紀のロシアの精神風土が21世紀の日本にも当てはまるとしたら、われわれは一体、どんな「すばらしき世界」を生きているのだろう?

 
いや、それどころじゃない。この三上が架空のキャラクターではなく、現実に福岡県で孤独死を遂げた田村義明という元受刑者にもとづくものであることを知って、わたしは戦慄する。
 

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