アナログ派の愉しみ/本◎アイリッシュ著『裏窓』

異常なのはどちら?
深夜のモノローグがもたらすもの


アルフレッド・ヒッチコック監督の有名な『裏窓』(1954年)のもとになったウィリアム・アイリッシュ(またの名をコーネル・ウールリッチ)の小説(1942年)を、わたしは幸いにも映画を観る前に読むことができた。なぜ、幸いなのか? 原作のほうがずっと衝撃度が大きくて、もしも映画を先に知っていたら、せっかくのサスペンスの凄みが少なからず減殺されてしまったに違いないから。

あらすじを紹介しよう。ただし、まだご存じなくて、わたしと同じ衝撃度を味わいたい方は、ここで読むのを止められることをお勧めする。

足を怪我して自室のベッドで寝たきりとなった男が、退屈しのぎに裏窓から近所を眺めやる日々を過ごしている。すると、斜向かいのフラット・ハウスの一室のただならぬ様子に、夫が病身の妻を殺したのではないかとの不審を抱き、やがて疑惑が確信へと育っていくにつれ、ひそかに真相を暴くための工作に着手する。ところが、どうやら事情を察したらしい相手は逆に、深夜、身動きのできない男のもとに一歩一歩迫ってきて……。

ストーリーの基本はもちろん、小説・映画とも共通している。とは言え、文庫本で50ページほどの短篇を、約2時間の映画にしたのだから大幅な脚色が施され、主人公の男の職業も、部屋の間取りも、裏窓の向かいのアパートや中庭の配置も、夫が妻を殺す方法も、死体を隠したトリックも、また、その謎が解き明かされていく経過も、ことごとく小説と異なっているのは当然なのだろう。これらをもって、原作の凄みを損なっていると言うつもりはない。もうひとつの重大な変更点を除いては。

それは、映画の主人公(ジェームズ・スチュアート)に絡めて、小説には存在しないガールフレンド(グレース・ケリー)を登場させたことだ。この設定も映画化の立場からすると、スター女優、それもヒッチコック好みのブロンド美女を起用することで華やかにスクリーンを彩り、興行成績にも結びつけたい、との意図は理解できる。しかし、この措置により、本来は男のモノローグ(独白)だったものが、男女のダイアローグ(対話)というまったく別の次元に転換してしまったのだ。

原作小説では終始、一人称の自問自答で話が進んでいく。出入りのハウスキーパーに工作の手伝いをさせたり、知り合いの刑事に家宅捜査を示唆したりする際も、自分が抱いている疑惑の内容は打ち明けず、あくまで内なる秘密にとどめている。それは合理的な推理に立ってはいるものの、だが、本当にこの疑惑は的を射ているのか、どこかで妻は生きているのではないのか、たんに身動きできない怪我人の妄想にすぎないのではないのか、一体、異常なのはどちら? という疑念が読む者ばかりでなく、つねに主人公の男の片隅にも巣食っているからであって、その危うさがこのミステリーを成り立たせている。

ところが、映画では一連のプロセスがすべて、男とガールフレンドのあいだで共有され、議論され、検証される。そんな具合に両者のダイアローグによって進行したことで、ラストの衝撃度が著しく小さくなってしまったと思う。

つまり、こういうことだ。最近の日本では高齢者施設で職員が入所者を傷つけたり、ひいては殺害したりする事件が珍しくない。その手のニュースが報道されるたびに、わたしはつい自分が寝たきりになって施設に収容されているところを想像してしまう。どうせ気短で怒りっぽい鼻つまみ者になっているだろうから、あの看護師、この介護士が、自分を憎むこともありえると感じている。いつかは忍耐の限界に達するに違いない。真偽定かならぬそんな自問自答を繰り返しているうちに、ある深夜、廊下の足音が一歩ずつ、こちらに近づいてくるのを耳にするのだ……。

そうした出口のないモノローグの不安から逃れる手段はある。さっさと自問自答を止めて、みずからの疑念を表明し、まわりの身内やら患者・職員やらと親しくダイアローグの関係に入ってしまえばいい。まさにヒッチコックの『裏窓』で男がガールフレンドと実践したように。たちまちにして不安は雲散霧散するだろう。もし、それができるならば。そう、われわれはたいていできないのだ。できないからこそ、だれしもひとり孤独のうちにベッドで鬱々と寝たきりになっている。その知りたくない現実に向きあわせられるのが、アイリッシュの『裏窓』の衝撃度の正体なのだ。

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