アナログ派の愉しみ/音楽◎ベートーヴェン作曲『春』

東西冷戦の
真っ只中の春の光景


ベートーヴェンは10曲のヴァイオリン・ソナタを残したが、このうち9曲は1797年~1803年、26歳から32歳にかけてつくられている。つまり、『英雄』交響曲(1804年)によって幕を開ける「傑作の森」(ロマン・ロランの言葉)の直前のことで、まだ創造力の爆発にはおよばないまでも、そのぶん若々しい感情の発露を認めることができるだろう。なかでも、第5番(1801年)は後世の人々に『春』の愛称で親しまれてきたとおり、いかにものびやかな青春の歓喜にあふれ、当時、伯爵令嬢ジュリエッタ・グィチアルディに捧げられた恋愛感情が反映しているという説もある。

 
苦悩と闘争の楽聖ベートーヴェンの、そうした若い日の作品群は、手練れのヴァイオリニストたちにはかえってひと筋縄でいかないのか、わたしがクラシック音楽を聴きはじめたころ、ヴァイオリン・ソナタ全集といったら、ソ連の巨匠ダヴィド・オイストラフがレフ・オボーリンのピアノ伴奏で録音したレコードだけが評価を独占していた。その結果、すっかり刷り込まれてしまい、いまだに他のヴァイオリニストの全集を前にすると、どうしても比較してもの足りなく思うのだ。

 
ところが、である。この金字塔のヴァイオリン・ソナタ全集において、わたしがずっと違和感を抱いてきたのは、『春』のソナタがあまりにも重々しく演奏されていることだった。もっと軽やかに夢見るように弾いてほしいのに、オイストラフはどっしりと腰を据えてテコでも動かないかのような身構えで終始する。もちろん、それはそれで立派な演奏なのだけれど、なにもそこまで肩肘張らなくてもいいじゃないか、もしやロシアの大地の凍てついた春を表しているのだろうか、と考えたりしたものだ。しかし、どうやらわたしの浅知恵だったらしい。

 
そのことに気づいたのは、オイストラフとオボーリンが1963年にパリでこのヴァイオリン・ソナタ全集を録音したのと同じ時期に、ふたりによる『春』のプライヴェートな実演を記録した映像を目のあたりにしたからだ。場所はパリ市内のホテルか大邸宅だろうか、天井にはシャンデリアが輝き、壁にはベートーヴェンの肖像画が飾られている一室で、灰色の背広を着込んだヴァイオリニストとピアニストが演奏をはじめて……。

 
時代背景をざっくり整理すると、こうなる。1953年にソ連の独裁者スターリンが世を去ると、第二次大戦後の東西冷戦が緩んでいわゆる雪どけのムードとなり、それまで「鉄のカーテン」(チャーチルの言葉)のかなたの幻の存在だった音楽家たちも西側世界に登場し、独特のロシアン・メソッドが聴衆を驚嘆させて、オイストラフもその立役者のひとりだった。1953年にフランス、1954年にスウェーデンとイギリス、1955年には日本とアメリカ……と海外公演を重ねていき、1962年にふたたびフランスを訪れた際にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集を一気に録音してのけたのだ。

 
こうしてオイストラフの演奏活動がグローバル化するかたわら、米ソの核兵器配備や宇宙進出競争に引きずられて東西冷戦は新たな緊張関係に入り、ソ連領空を飛行中だったアメリカ軍偵察機の撃墜(1960年)、ベルリンの壁の建造開始(1961年)を経て、やがてキューバ危機(1962年)へと事態は深刻化していく。このころ、映画でもスタンリー・クレイマー監督の『渚にて』、スタンリー・キューブリック監督『博士の異常な愛情』、また、松林宗恵監督『世界大戦争』といった具合に、全面核戦争の悪夢をリアルに描いた作品が続々と出現している。すなわち、オイストラフによってベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集が完成されたのは、人類滅亡の危機がかつてないほど高まった真っ只中でのことだった。

 
なお、当時のオイストラフはつねにソ連情報局の監視下に置かれ、家族は脅迫にさらされ、海外公演のギャランティも全額没収されていたという。やがて頻繁に心臓発作を繰り返すようになり、1974年にアムステルダムのホテルで66歳にして客死したのも、長年にわたる極度の精神的圧迫がもたらしたものだとされている。

 
したがって、オイストラフがこのときパリで奏でた『春』のソナタは、冬が去って新しい生命が萌えいずる季節の描写でもなく、若いエネルギーがほとばしる恋愛感情の表現でもなく、眼前に差し迫った人類滅亡へのカウントダウンのなか、われわれはふたたび春と巡り会うことができるのかどうか、そんな絶望感を呑み込んだうえでの演奏だったのではないか。であれば、ときに息苦しいほどの重厚な響きが湧き出したのも納得がいく。そして、この映像記録の舞台となった豪華な装飾を備えた密閉空間が、ひそかに準備されていたかもしれない核シェルターのようにも見えてくるのである。
 

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