アナログ派の愉しみ/映画◎ニック・カサヴェテス監督『ジョンQ』

人質にした者と、
人質にされた者と


シカゴにある総合病院の救命センターに拳銃を持った黒人の中年男(デンゼル・ワシントン)が押し入り、医師や看護師、事務員・警備員などのスタッフとともに、怪我をした幼児、陣痛のはじまった妊婦などの患者と付き添いの、ざっと十数名を人質として立てこもった。緊急通報によって警官隊が現場を取り巻き、交渉担当のベテラン警部補(ロバート・デュヴァル)が電話で接触すると、男はジョンQと名乗り、この病院に入院中の自分の息子を心臓移植手術の候補者リストにのせることを要求するのだった……。

 
ニック・カサヴェステ監督の『ジョンQ』(2002年)の設定だ。この映画はアメリカの医療保険制度の差別構造をテーマとしたものだが、われわれ日本人にとってはまったく別の問題を提起しているように思う。

 
主人公のジョンは勤務先のリストラでパートタイムとなった工場労働者で、小学生のひとり息子に重度の心臓疾患が見つかり、延命のためには移植手術しか方法がないと診断され、そのときになって初めて自分が加入する保険ではこうした高額医療を受けられないことを知る。あの手この手でカネをかき集めて美貌の病院長(アン・ヘッシュ)にかけあってもラチが開かず、タイム・リミットが刻一刻と迫ってくるなかで、かれは心臓外科部長の医師(ジェームズ・ウッズ)を拉致して上記の行動に出たのだった。

 
それが犯罪であっても正義はジョンの側にある、という枠組みに出ストーリーは展開していく。テレビ局の取材チームがそのやむにやまれぬ主張を全国ネットで伝え、病院周辺に集まったおびただしい群衆は声援のシュプレヒコールを送るのだった。まるでトランプ前大統領の選挙集会を思わせる熱狂的な光景にわたしもつい高ぶってしまうのだが、しかし同時に、どうしても割り切れない思いも込み上げてくるのだ。いくら愛する息子を救いたいからといって、見ず知らずの他人を人質に取って要求を押し通そうとするのはこちらの生命とあちらの生命を天秤にかけるような不遜な振る舞いではないか。それを当事者ばかりでなく、マスコミや世間一般の人々までがバックアップするとは……。

 
これが日本であったなら、どうだろう? ずいぶん旧聞に属するエピソードだけれど、日本赤軍が日航機をハイジャックした事件(1977年)の際、ときの総理大臣が超法規的措置を実行するにあたって「ひとの生命は地球よりも重い」と言明した理念は、いまもわれわれの心底に横たわっているような気がする。たとえどんな事情があろうとも人質を取っての行動を容認することは考えられないのではないか。

 
さらに、われわれの感覚からすると、もっと割り切れないところがある。ジョンは日ごろ妻と息子と教会に通う敬虔なクリスチャンだった。そして、事件を起こしたあとも人質の白人青年から「もし要求が通らなかったらぼくらを殺すのか?」と問われて、静かにこう答えている。

 
「オレは奇跡を待っている、神の救いの手を」

 
それだけではない。ついに要求が通って息子を心臓移植手術リストにのせることはできたものの、おいそれとドナーが見つかるはずもなく、ジョンはもとから父親である自分が心臓を提供することを目論んでいた。その企図を知った別の人質の黒人青年は、気持ちはわかるが自殺はいけない、とこんな言葉で制止しようとする。

 
「神の意思にしたがわなくちゃいけないときもある」

 
すなわち、この立てこもりの現場にあっては、人質にした者と人質にされた者の双方がともに神への信仰を規範としているのだ。あたかも神という存在が人間の生命と生命を天秤にかけることを是認しているかのような、この死生観のギャップを、われわれは一体どう受け止めたらいいのだろう? 神と向きあうことで個人が成り立つ世界では、ひとりひとりの生命の価値は地球の重さとは次元が異なり、その神との関係において天秤にかけられ計量可能となることを意味しているのか。

 
だとするなら、イスラム主義組織ハマスがイスラエルから約240名の人質を連れ去ったことからはじまったパレスチナ自治区ガザの現下の事態についても、実のところ、われわれはその真相をなんら理解できないのかもしれない。そんな疑問が込み上げてくるのである。
 

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