アナログ派の愉しみ/映画◎アラン・ドロン主演『太陽がいっぱい』

「なりすまし詐欺」に
ハメられたのはだれか?


ルネ・クレマン監督の大ヒット作『太陽がいっぱい』(1960年)に独自の見解を持ち込んで、ファンをあっと言わせたのは稀代の映画評論家として鳴らした淀川長治だ。作家・吉行淳之介との対談(1977年)において、主役のふたりの男、トム(アラン・ドロン)とフィリップ(モーリス・ロネ)は同性愛の関係にあり、地中海の青空の下、ヨット上でトムがフィリップをナイフで刺し殺すのはラヴ・シーンに他ならず、「ホモセクシャル映画の第一号」だと喝破してみせたのだ。もともとパトリシア・ハイスミスの原作小説(1955年)にはそうした雰囲気が濃厚だったせいもあって、以来、この説が広く人口に膾炙して現在に至るのだけれど、わたしはいまになってみると首をひねりたくなる。

 
ストーリーを詳しく紹介する必要はないだろう。アメリカの大富豪がいつまでもイタリアで遊びまわっているドラ息子フィリップに業を煮やし、知り合いの貧しい青年トムに依頼して連れ戻しにやったところ、そんな父親の思惑を尻目にふたりは親しくなって、フィリップの婚約者マルジュ(マリー・ラフォレ)も交えて気ままな日々を過ごしていた。しかし、そこにはトムのひそかな深謀遠慮が働いていて、かれはフィリップの人となりや日常習慣をすっかり呑み込んで模倣できるまでの自信を得ると、ヨットに男ふたりだけで乗るように仕向けて上記のとおり刺殺し、その死体を帆布でくるみ碇をおもりにして海中へ投じたのだった……。

 
淀川は対談で、同性愛関係を示す証拠のひとつとして、トムとフィリップが船から降りてくるのを目にした老人が、あのふたり可愛いね、と洩らすシーンを挙げているけれど、何かの勘違いと思われる。実際には、フィリップを殺したのちにひとりで港に戻ってきたトムを見やって、バチ当たりめ、と吐き捨てるのだ。おそらく長年海に生きてきた漁師には、その美しい青年の身にまとう凶暴さがありありと見て取れたからに違いない。

 
それはともかく、このあとトムはフィリップのサインの筆跡と居丈高な口ぶりをマスターし、パスポートの写真を差し替えて偽造し、いまなお生存しているかのように工作しながら、かれの残した金品を手中に収める一方、やがて事態に勘づいた男の口をふさぐため第二の殺人を犯すと、今度はフィリップを犯人に仕立てたうえでひと知れず自殺したものと装う……。そう、この映画は、半世紀後の日本で横行することになる社会現象を先取りするかのように「なりすまし詐欺」という犯罪のメカニズムを主題としていたのだ。こうした観点に立つとき、もし加害者と被害者が同性愛関係にあって心情のもつれが殺人の動機としたら、まったく別の陳腐なドラマとなってしまうだろう。

 
この大胆不敵な「なりすまし詐欺」の絶対的条件が、アラン・ドロンの扮するトムの美貌にあるのは明らかだ。ことの成り行きを決するいちばんのキイパーソン、フィリップの婚約者マルジェを籠絡しようとするシーンで、かれが上目遣いに注ぎかける青い瞳の妖しさと言ったらどうだろう。若いパリジェンヌの彼女にかぎらず、このわたしでさえそんな眼差しを向けられたらへなへなと腰が砕けてしまうに違いない。かくして、ついにマルジェの心身も手に入れたトムはあまりにも有名なセリフを口にする。

 
「太陽がいっぱいだ、いままでで最高の気分だ!」

 
完全犯罪は成功した……はずだった(事実、パトリシア・ハイスミスの原作小説では成功したことになっている)。ところが、ルネ・クレマン監督はここに途方もない罠を仕掛けたのだ。

 
つぎのシーンに転じると、あの犯行の舞台となったヨットが売却のため陸揚げされていたところ、船尾の舵にロープが幾重にも絡まりつき、その先には海底深く沈んだはずのフィリップの遺体を覆った帆布のかたまりがあった。こうしてトムの成功は一瞬のうちに崩れ去ったのだが、わたしが罠と言ったのはそのことではない。落ち着いて考えればだれにもわかるとおり、あれだけ舵がロープでがんじがらめになっていたら航行に支障をきたして、トムだって容易に気づいただろう。あの日、なにごともなくヨットで帰港してきた経緯とは両立しないのだ。そこに途方もない罠が仕掛けられていると思う。どうやら、トムの至福に輝く美貌に見惚れているうち、両立しないはずのものを両立させてしまったわれわれこそ、この映画の「なりすまし詐欺」にハメられたらしいのである。
 

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