アナログ派の愉しみ/映画◎ヴァン・レウ監督『シリアにて』

戦争について語るときに
最も必要なものは


それは違うだろう、とわたしは呟きたくなる。世界のあちらこちらの紛争地についてテレビの報道番組が伝える際、専門家なる人物が出演して現在の状況や今後の見通しを訳知り顔で解説したりするときだ。あたかもサッカーの試合中継さながらに。

 
いや、たとえサッカーの試合だとしても、フィールドの外からの高みの見物ならばなんとでも口にできるが、もし自分の足でそこに一歩でも踏み込んだら、両チームの選手が周囲をめまぐるしく駆けめぐって解説どころではなく、激しいプレイに巻き込まれ怪我でもしないよう右往左往するのが関の山だろう。ましてや実弾が飛び交う戦場にあっては、どちらが優勢劣勢とか今後の展開がどうだとか、そんなことは当事者たちさえわからずにひたすら生命を消耗しあっているのが実情ではないか。

 
いまさらながらこうした思いを強くしたのは、フィリップ・ヴァン・レウ監督の『シリアにて』(2020年)に接したからだ。スクリーンが映しだすのは首都ダマスカスの一角らしい。らしいと言うのは、具体的な説明がいっさい省かれているからだ。そこでは絶え間なく銃撃や爆発が空気を揺るがすのだが、どのような事態が進行しているのかについてもなんら説明されない。アサド政権のもとでえんえん内戦が繰り広げられてきた背景はさておき、映画は戦争という不条理がどっかと居据わって、個々の人間にはどうすることもできない現実そのものを凝視しようとするのだ。

 
一軒のアパートがある。すでに住人のほとんどは退去したようだが、2階の部屋だけはいまだに人いきれが立ち込めていた。やはり紛争に従事しているらしい主人は不在で、すべてを主婦のオーム(ヒアム・アッバス)が取り仕切り、ふたりの娘と幼い息子、年老いた義父、メイドからなる一家に加えて、近くに住む青年や5階の部屋から移ってきた若夫婦と赤ん坊もいっしょに隠れ暮らしていた。

 
こうして24時間の密室劇が幕を開ける。その朝、若夫婦の夫はここから脱けだすルートを求めて外出したとたん、駐車場で狙撃されたのをメイドが目にするが、オームは妻のハリマ(ディアマンド・アブ・アブード)には黙っているように命じる。また、近くで爆音が炸裂するたびに全員を奥まった台所に集めてじっと息を殺す一方、そのあいまには室内の掃除を行ったり、幼い息子に宿題をさせたり、なけなしの材料でこしらえた食事をあてがったり。徐々に迫ってくる危機を懸命に凌いでいたものの、突如、正体不明の男たちがアパートにやってきて押し入ろうとしたときに、赤ん坊を連れ戻しにいったハリマが捕まって鍵をかけた扉の向こうでレイプされてしまう。やがてあたりが宵闇に包まれると、オームは身も心も打ちひしがれたハリマに向かって今朝の凶事を打ち明け、駐車場の捜索に当たらせたところ、その夫は幸いにも重傷を負いながら生命を保っていた……。

 
ともかくも、ここで暮らす老若男女10名はひとりも死ぬことなく一日を終えることができた。それをもってよしとするのが、戦火のまっただなかで過ごす生活というものなのだろう。

 
「よく聞きなさい。私は家のない子どもだったの。だから、この私の家からは絶対に出ていかないわ」

 
オームは家族に対して宣言する。だれもかれもがぎりぎりの狂気の瀬戸際へと追いやられるなかで、彼女は自己の生活に執着することで正気を保ち、まわりの連中をときに厳しく叱りつけ、ときに優しく抱き止めて、かれらを生きながらえさせるエネルギーとした。こうした極限状況においても、わずかな時間を盗んでリヴィングルームのテーブルに頬ずりしながら恍惚の表情を浮かべるように、断じて自己の生活を手放すことはない。深夜にハリマの夫を医師のもとに運ぶため訪れた同志の男たちから、もはやこのアパートは放棄せざるをえないと伝えられるが、たとえそのとおりになったとしても、彼女は新たな場所で自己の生活を頑なに守りとおしていくのだろう。現実世界の紛争地から逃れてきた多くの難民が、そうやって懸命に生き抜いているごとく――。

 
ベルギー出身のヴァン・レウ監督は、知人の父親が2013年にシリア内戦の煽りで北部の都市アレッポに3週間禁足されたというエピソードを聞き知り、みずから脚本を書き上げて作品に結実させたという。われわれが戦争について語ろうとするとき、最も必要なものは要領のいい解説などではなく、いまだに人類が克服できずにいるこの愚行への飽くなき想像力なのだ、とこの映画は物語っている。
 

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