アナログ派の愉しみ/本◎小林秀雄 著『常識』

さて、われわれはいま
どう常識を働かせるべきか


エドガー・アラン・ポーの作品のなかでさほどの出来とは思われない『メルツェルの将棋差し』(1836年)について、小林秀雄はことのほか重大な関心を抱いたらしい。まだ駆け出しの文筆家だった1930年、雑誌『新青年』に匿名でボードレールのフランス語訳から重訳したものを載せて初めて日本の読者に紹介し、太平洋戦争後、取締役をつとめた東京創元社の『世界推理小説全集』(1956年)の刊行にあたって大岡昇平との共訳という形で収録した。のみならず『文藝春秋』誌上で〈考えるヒント〉シリーズの連載がはじまると、さっそく『常識』(1959年)と題してこのポーの作品を取り上げたのである。

 
メルツェルの将棋差しとは、18世紀にハンガリーで発明されたというチェスを行う自動人形の見世物のことで、19世紀にかけてヨーロッパやアメリカを巡業して大評判を呼んでいた。それはトルコ人の扮装をした人形が大きな箱に腰かけているしつらえで、興行主はあらかじめ仕切りごとの扉を順番に開けて内部が機械仕掛けだと示してから、観客を相手にチェスをはじめるという寸法なのだが、ポーはそのトリックを解き明かそうとしてつぎのように論じる。くだんの小林・大岡訳で引いてみよう。

 
 主眼は、箱の仕切りは動かせるものであるということを立証することにある、つまり中に隠れた人間は、箱のからくりを見物に見せている間、身体を箱の中のあちこちに動かして、見物の目を避けるということにある。〔中略〕箱の内部を見物に見せている間、誰かが中に隠れているのだ。

 
まあ、ごくまっとうな推理だろう。むしろ、その立証のために足しげく見世物に通い、偏執的なまでの観察を重ねたポーの態度のほうに奇異な印象を受けるのだけれど、それ以上に奇異の感を禁じえないのが、現代のわれわれからすればしょせん子ども騙しの手品を扱ったこの文章に小林が重大な関心を示したことだろう。かれは『常識』の冒頭でポーの作品の内容をざっくりと要約したうえで、こんな疑問を呈するのだ。

 
 常識で考えれば、将棋という遊戯は、人間の一種の無智を条件としている筈である。名人達の読みがどんなに深いと言っても、たかが知れているからこそ、勝負はつくのであろう。では、読みというものが徹底した将棋の神様が二人で将棋を差したら、どういう事になるだろうか。

 
どうやら小林の関心は、はなから自動人形の中身が人間だったというトリックなどにはなく、もっと別のところに向けられていたらしい。上記の将棋に関する設問を知りあいの物理学者に質したところ、こんな回答が返ってきた。もしマスが縦に三つしかない盤で双方が「歩」を一枚ずつ置いて勝負したら先手必敗、マスを四つにすれば先手必勝になり、そうした変数をどんどん増やしていって人間にはわからなくなったとしても、神様なら読み切ることができる以上、先手必勝か後手必勝、または永遠に勝敗のつかない千日手のいずれかになるはずだ。かくしてかれは安心する、結論が常識に一致した、と――。

 
だが、そこにとどまらない。小林の目線はさらにその先に向けられていく。メルツェルの将棋差しを世に送りだした18世紀の科学で現代の電子工学を論じられないとしても、では、ポーが見極めた常識はもはや古くなったと言えるのかどうか。そして、とかく「人工頭脳」を持ちだされたとたん、われわれの常識がたちまち揺らぎだすありさまを指してつぎのように問いかけられた結びは、まさに21世紀の今日、生成AIをめぐって世界じゅうの指導者やら文化人やらがてんやわんやの議論を繰り広げているありさまを予言したものに他ならないだろう。

 
 なるほど、常識がなければ、私達は一日も生きられない。〔中略〕常識の働きが貴いのは、刻々に新たに、微妙に動く対象に即してまるで行動するように考えているところにある。そういう形の考え方のとどく射程は、ほんの私達の私生活の私事を出ないように思われる。事が公になって、一とたび、社会を批判し、政治を論じ、文化を語るとなると、同じ人間の人相が一変し、忽ち、計算機に酷似してくるのは、どうした事だろうか?

 
なんのことはない、「人工頭脳」の幻に酔って常識を見失い、いまだにメルツェルの将棋差しに躍らされているのがわれわれの姿なのかもしれない。
 

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