アナログ派の愉しみ/音楽◎ブラームス作曲『弦楽六重奏曲第1番』

要領の悪さも
天賦の才能である


当節、世渡りのいちばんのキイワードは「要領」だろう。だれもかれもがスマホ片手に、世間に後れを取ってはならない、精一杯要領良く立ち回ろうと汲々としているように見受けられる。ますます加速度を増していく時代の変化のもとでは、それも必然的な成り行きかもしれない。ただし、翻って考えてみると、要領の良さはだれでも訓練すればある程度身につけられるが、逆に、要領の悪さのほうは身につけようとして身につくものではない。その意味では、要領の悪さも当人にとっては奇特な資質と言えるのではないか。

 
こんなふうに書きだしたのも、念頭にヨハネス・ブラームスのことがあるからだ。おそらくクラシック音楽史上でも要領の悪さでは屈指の存在だろう。

 
ブラームスの宿命は、1833年にハンブルクで出まれたのが楽聖ベートーヴェンの没後わずか6年だったことだ。そのせいで、幼くして神童の誉れを得ながら、目の前に聳え立つあまりにも偉大な先達に対して腰が引け、のびのびと作曲の筆をふるえなかった。たとえば、ベートーヴェンが16曲を残した弦楽四重奏曲においてかれが最初の作品を発表したのは40歳のときで、また、ベートーヴェンの作風を受け継いだ『交響曲第1番』はさらに手間取り、実に20年以上をかけて完成したのはようやく43歳のときだった。いくらうるわしい謙譲の美徳であったとしても、現代よりも平均寿命が短かった当時のこと、もしかれの人生がモーツァルトと同じ長さだったらこうした傑作たちは世に現れなかったことを思うと、その要領の悪さが空恐ろしくなるほどだ。

 
そんなブラームスの作品のなかで、わたしがこよなく愛好しているのは『弦楽六重奏曲第1番』(1860年)だ。デトモルトの宮廷で合唱指揮の仕事をしていた27歳のブラームスが、この曲に心置きなく取り組めたのは、ベートーヴェンにこうした分野の作品がひとつもなかったからに違いない。いや、ベートーヴェンにかぎらず、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロが各2丁ずつという中・低音にウェートのかかった編成は作曲家たちの創作意欲を刺激しなかったようで、残された作品の数はきわめて少ない。それだけに、独自の手法を駆使して青春の思いの丈を迸らせたような雰囲気が魅力なのだけれど、こうした場合でもどこかしら、ああでもないこうでもないと、うじうじ思い迷い、ひと筋縄では進まないところがブラームスらしい。

 
ブラームスはその時分、みずからを世に送りだしてくれたシューマンが精神病院で死を遂げると、あとに残された家族のサポートに努めるうちに、14歳年上の未亡人クララへの愛情をふくらませていた。しかし、どうしてもあと一歩を踏みせない。そうかと思えば、友人に紹介された2歳年下の歌手アガーテとたちまち恋仲になって婚約指輪まで交わしながら、いきなり煮え切らない手紙を送って破談になってしまう……といった具合に、異性関係においても、後世のわれわれさえじれったくなるほどの要領の悪さを発揮している。その結果、やり場のない悶々としたわだかまりが『弦楽六重奏曲第1番』に濃い陰影をもたらしたとするなら、あっぱれと脱帽するしかないだろう。

 
この曲は、ルイ・マル監督の映画『恋人たち』(1958年)で第2楽章が使用されたことで広く知られるようになった。地方新聞の社長夫人(ジャンヌ・モロー)は、地元でエスタブリッシュメントの夫や野性味あふれるポロ選手の愛人がいながら、たまたま知りあった年下の考古学者(ジャン=マルク・ポリ)と一夜の感情の高ぶりに身をまかせて駆け落ちすることに。ラストシーンでは、ブラームスの足取りの重い響きにナレーションがかぶさる。「ふたりは不安な思いで長い旅に出発した。最初の夜の幸せはふたたびあるだろうか。夜明けの危険な時間に早くも彼女は自分を疑っていた」--。

 
むろん、最初の夜の幸せが二度とふたたび訪れることはない。ここに描かれたのは華麗な恋のアヴァンチュールなどではなく、すでに日常という陥穽に落ち込んでしまった男と女のぶざまな姿だ。そう、われわれの多くと同じように。こうした砂を噛むような人生の場面にはモーツァルトやベートーヴェンよりも、やはりブラームスの音楽がふさわしい。

 
ついでに、もうひとつエピソードを添えておこう。『弦楽六重奏曲第1番』の発表から9年後の1869年の夏、36歳のブラームスは今度はシューマン家の三女ユーリエに恋心を抱く。12歳年下の彼女は、この間に少女から美しいレディへと成長したのだ。しかし、例によって胸の内を打ち明けられないでいるうちに、母親のクララはさっさとイタリアの貴族のもとへ嫁がせてしまい、そのあげくブラームスはユーリエのために心ならずも花嫁の歌『アルト・ラプソディ』を作曲してプレゼントしたという。いやはや、要領の悪さもここまでくるととうてい常人のおよぶところではなく、もはや天賦の才能と呼ぶべきではないか。
 

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