アナログ派の愉しみ/本◎吉村 昭 著『羆嵐』

美意識を拒否して
獰猛な現実そのものと向かい合う


歴史小説の大家は、固有の美意識を持っているようだ。司馬遼太郎が政治的人間の行動原理に向ける眼差しも、また、山本周五郎が織りなす倫理観や、藤沢周平が滲ませる諦観もそれぞれの美意識によるものだろう。したがって、かれらの作品はその規矩のなかに収まって逸脱することがないから、どんな出来事を題材としても、読者は安心して文章の成り行きに身を任せられるのだ。しかし、わたしの知るかぎりではただひとり、吉村昭はそうした美意識を拒否したところに立脚している。

 
吉村の歴史小説がつねに不穏な気配をまとうのは、そこに描かれるのが現実そのものだからだ。いまここに起きている出来事がつぎのページでどう展開するのか、まったく予断を許さない。そう、われわれの日々の生活と同じように――。

 
『羆嵐(くまあらし)』(1977年)は、大正年間に北海道の天塩山地の奥深い開拓地で発生した「獣害史最大の惨劇」を、実際の記録にもとづいて再現した作品だ。そろそろ本格的な冬を迎えようとする11月下旬のある日、渓流沿いに15家族がひっそりと暮らす村の一軒で、幼い息子の喉を裂かれた死体が見つかり、いっしょにいたはずの主婦の姿が消えていた。めちゃくちゃに荒らされた屋内外のようすからヒグマの仕業と推察され、村の男たちが集まって探索に出たところ、雪の積もった山肌で主婦の遺骸を発見する。その場面を引用しよう。

 
 かれらの間から呻きに似た声がもれた。顔をそむける者もいた。それは、遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端にすぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆をつけた片足の膝下の部分のみであった。
 「これだけか」
 区長が、かすれた声でたずねた。

 
この文章に接して、わたしも喉がごくりと鳴ったものだ。そればかりではない。このあとにつながる部分を目にするなり、しばらくページを伏せてしまった。

 
 島川の妻の遺体の無残さは、各家々につたえられた。それは、家族たちに激しい恐怖と悲しみをあたえたが、同時にかれらにひそかな安堵もいだかせていた。遺体の大半が失われていたことは、羆が十分に食欲をみたしたことを意味している。山林中に羆の姿がみえなかったのは、羆が飽食して山中深く去ったためだと想像された。

 
人間もまた、否応もなく共犯者だったわけだ。もとより、かれらの楽観的な想像はあっさりと裏切られ、やがていっそう酸鼻をきわめた事態が出来して、文庫本を持つ指がこわばるほどの恐怖を味わったのだが、そこはじかに本書で体験してもらいたい。

 
このわたしも、20年ほど前に知床半島を縦走したことがある。そのとき、羅臼平の幕営地にテントを張ったのだが、看板では、食料(レトルトを含む)とゴミは必ず所定のフードロッカーに入れて施錠するよう注意が喚起されていた。そうしないと、ヒグマが臭いに誘われてテントを襲う可能性がある、と――。わたしはレトルト食品も臭いを発していたことに驚くとともに、獰猛なのはヒグマではなく、自然の生態系のもとですべての生命が死を介してつながっている現実が獰猛なのだと思い知らされた。

 
吉村は晩年に舌がんと膵臓がんを患い、たび重なる大手術や放射線治療を受けてがん細胞と凄まじい格闘を繰り広げた。その最期を看取った夫人で作家の津村節子の著作『紅梅』(2011年)によると、自宅のベッド上で吉村はいきなり腕を伸ばして点滴の管を外し、胸に埋め込んであったカテーテルポートを引きむしって「もう、死ぬ」と告げ、みずから延命治療を絶ったという。2006年7月31日、享年79。その小説世界のみならず、おのれの生きざまにおいても美意識を拒否して、あくまで獰猛な現実と向かい合うことを貫いたのだった。
 

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