アナログ派の愉しみ/本◎H・G・ウエルズ著『タイム・マシン』

どうして、われわれは
未来へ出かけることをやめたのか?


どうして、われわれは未来へ出かけることをやめてしまったのか? いつからだろう、子ども向けの童話やマンガから、大人向けの小説やテレビドラマ・映画まで、あれだけ氾濫していた未来社会の冒険譚がすっかり影をひそめてしまったのは……。その最大のアイコンが『タイム・マシン』(1895年)とは衆目の一致するところだろう。生涯におびただしい著作を世に送り出したハーバート・ジョージ・ウエルズの29歳での文壇デビュー作であり、これを嚆矢とするなら、未来社会の冒険譚とは19世紀末からおよそ100年にわたって人類を眩惑したのちに命脈を終えたジャンルと言えるのかもしれない。

 
『タイム・マシン』の内容については、いまさら紹介の必要もないだろう。英国ヴィクトリア朝の裕福な青年発明家(実名は明かされない)が独自の四次元理論にもとづいてタイム・マシンを組み立て、過去と未来を自在に往来できる時間旅行家(タイム・トラヴェラー)となり、なんと約80万年後の世界へと行き着く。そこでは都市文明の廃墟に見たこともない草木が生い茂っているなか、人類は地上でのどかに暮らす柔弱なエロイと、地下で生産活動をになう獰猛なモーロックの二つの人種に分かれていた。時間旅行家は自分の生きる時代状況から、こんなふうに分析する。

 
「現在の社会情勢に照らしてみて、資本家と労働者の分裂がこのことと関連していることは、火をみるよりも明らかだとぼくには思えた。〔中略〕現代の社会生活のなかに、既に人類が二種類に分離してゆく傾向を示唆する要素があるのではないだろうか」(橋本槇矩訳)

 
ウエルズが描く未来図は、当時の産業革命を牽引する科学的合理主義と、それがもたらした資本主義・社会主義の対立、さらには進化論や無神論……という近代ヨーロッパを席巻した激しい思潮のせめぎあいが生み出したものだった。しかも、かれのイマジネーションはそこにとどまらず、さらなるバーバリズムの追求へと突き進んでいく。すなわち、地下のモーロックは夜になると地上に現れて、知力も体力も衰えたエロイたちをさらっては家畜のように屠って食糧としていたのだ。なんと言う、人類のおぞましい未来像!

 
なるほど、かつてわれわれが接したマンガやSF映画などでも、目をそむけたくなるようなディストピアの描かれることが多かったように思う。とりわけ、楳図かずおが『少年サンデー』に連載したマンガ『漂流教室』(1974年)は強烈だった。いきなり学校が爆発して未来へとタイムスリップした少年少女たちが目の当たりにしたのは、凄まじい環境汚染による荒廃のもとで人間同士が狂気に駆られて殺しあう酸鼻をきわめた世界なのだ。わたしだけではないはずだ、未熟な感受性にこうした未来図が刷り込まれ、それを根底から覆すだけの契機を見出せないまま現在まで引きずってきているのは――。その意味で、ウエルズは未来社会をめぐる夢と同時に、抜き差しならないペシミズムを後世の人々にプレゼントしたとも言えるだろう。

 
21世紀の今日、もしわれわれが本当に未来社会へ出かけることをやめてしまったとしたら、それは人類の将来に対するペシミズムを脱することができたか、もしくは、ウエルズ以降の面々が描いてきた予言の数々がすでに現実のものと化して、いまさら架空の冒険譚をデッチ上げる必要がなくなったからか。そこで気がかりなのは、ただの餌として存在するエロイに初めて時間旅行家が出会ったときの印象だ。

 
「よく見ると、ドレスデン陶器のような彼らの美しさにはいくつかの特徴がある。カールしたような髪は頸のところで切りつめられ、顔に細かな産毛はない。耳や口は非常に小さく、薄い唇は燃えるような虹色で、顎の先は細い。大きい柔和な眼には、気のせいかもしれないのだが、ぼくの期待していた知的好奇の光はないようである」

 
何やら80万年後と言わず、当節、渋谷や原宿あたりで見かける若者たちを描写しているような……。
 

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