アナログ派の愉しみ/本◎川端康成 著『眠れる美女』

男は七十になっても男――
そのことわざが意味するものは


「女は十五になったら女。男は七十になっても男」。わたしがそのことわざと出会ったのは社会人になってしばらく経ったころ。仕事関係でちょくちょく顔を合わせていたひとまわり年上のキャリア女性があるとき、ふと溜め息をついてこちらに目を向け口にしたのだ。以来、何かの拍子に(たいていは女性の挙動に戸惑いを感じた場面で)アタマに浮かんだものだが、最近、その頻度が高くなったと思うのはわが身がいよいよ「七十」に近づいたせいだろう。

 
そして、それはまた、かつて苦笑しながら読んだ憶えのある川端康成の『眠れる美女』(1961年)が、いまにしていやに生々しい肌ざわりを帯びてきたのと軌を一にしているようなのだ。

 
主人公の江口老人は67歳、同じ世代の交際仲間の紹介で海辺の保養地にたたずむ「眠れる美女」という秘密の宿を訪れる。そこでは、女将の差し金のもと、真紅のビロードのカーテンをめぐらせた個室で睡眠薬により熟睡している全裸の少女と一夜を過ごすことができるのだ。もはや男性機能を失っているという前提で淫靡な快楽を味わえるわけだが、しかし、江口老人は二度目に訪れた際、女将の眼差しに軽蔑の色を見て取るとこんな感情が込み上げてくる。

 
 ひとり残された江口は鉄瓶の湯を急須にそそいで、ゆつくり煎茶を飲んだ。ゆつくりのつもりなのだが、その茶碗はふるへた。年のせゐぢやない、ふん、おれはまだ必ずしも安心出来るお客さまぢやないぞと、自分につぶやいた。この家に来て侮蔑され屈辱を受けてゐる老人どもに代つて復讐してやるために、この家の禁制をやぶつてやつたらどうだらう。その方が娘にとつてもよほど人間らしいつきあひではないのだらうか。娘がどれほどに強い眠り薬をのませられてゐるかわからぬが、それを目ざめさせる男のあらくれはまだ自分にあるだらう。などと思つてみてもしかし江口老人の心はさうきほひ立たなかつた。

 
もとより、心だけでなく、肝心の局部も気負い立たなかったことだろう。男がやがて機能を失っていくという自然な生理現象を受け入れられず、空威張りで抗おうとするぶざまさを、これほどあからさまに描きだした例をわたしは他に知らない。かくして、江口老人はさんざん葛藤に苛まれながら「眠れる美女」の宿に通いつめ、そのたびに新たな幼い女体と臥所で触れあううち、老いに濁った思念は生と死のあいだをさまよい、少女たちはときに仏となり、ときに悪魔ともなって立ち現れるのだった。

 
それだけにとどまらない。その夜、初めてふたりの少女をあてがわれた江口老人は、みずからも睡眠薬を服用したアタマで、おのれの人生に行き交ってきた女たちの面影を振り返り、こんなふうに一生の最後の女へと向かいつつあるときに、ふと疑問を発するのだ。じゃあ、最初の女はだれだったのか、と――。

 
 最初の女は「母だ。」と江口老人にひらめいた。「母よりほかにないぢやないか。」まつたく思ひもかけない答へが浮かび出た。「母が自分の女だつて?」しかも六十七歳にもなつた今、二人のはだかの娘のあひだに横たはつて、はじめてその真実が不意に胸の底のどこかから湧いて来た。冒涜か憧憬か。江口老人は悪夢を払ふ時のやうに目をあいて、目ぶたをしばたたいた。しかし眠り薬はもうだいぶんまはつてゐて、はつきりとは目覚めにくく、鈍く頭が痛んでくるやうだつた。うつらうつら母のおもかげを追はうとしたが、ため息をついて、右と左との娘のちぶさにたなごころをおいた。なめらかなのと、あぶらはだのと、老人はそのまま目をつぶった。

 
このあと、小説は急転直下、隣に寝ていたはずの片方の少女が死体となっていたという幕切れに至るのだが、むしろ、わたしにはこの江口老人が朦朧たる意識のなかで反芻した独白のほうがずっと大きな衝撃をもって迫ってくる。母親と息子は性の秘儀で結ばれている。と同時に、その秘儀は決して成就することがない。それは、わずか4歳の年に母親と死別した川端が人生をとおして見つめ、世の男たちのだれもが心底に沈めている真実と見抜いたものだったのだろう。

 
「男は七十になっても男」のことわざには、ひと筋縄で済まされない意味が含まれていそうなのである。
 

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