アナログ派の愉しみ/映画◎鈴木重吉 監督『何が彼女をさうさせたか』

そこに描かれたのは
日本のジャンヌ・ダルクだ


日本映画の歴史において幻の黄金時代があった。それは1929年(昭和4年)から1931年(昭和6年)にかけて、幻の、と形容したのは、当時の作品のほとんどが失われて今日実見することは叶わないからだ。ときあたかも金融恐慌のまっただなかで文学・演劇のプロレタリア運動が気を吐き、まだサイレント期にあった映画界も煽りを受けて、内田吐夢監督『生ける人形』、溝口健二監督『都会交響楽』、また、伊藤大輔監督の時代劇『一殺多生剣』『斬人斬馬剣』などの伝説的作品が誕生して、「傾向映画」の新潮流を巻き起こしたが、やがて満州事変が勃発すると当局の検閲強化にともないたちまち衰退してしまう。

 
そうした「傾向映画」のなかでも最大のヒット作が、鈴木重吉監督の『何が彼女をさうさせたか』(1930年)だ。かつて一世を風靡しながら、この作品もまた長く行方知れずとなっていたところ、戦時下の満州(現・中国東北部)にあったフィルムを終戦後にソ連軍が持ち去ったとされるものが、20世紀末にモスクワ近郊の映画アーカイブで見つかって復元され、いまではDVDで鑑賞できるようになった。残念ながらクライマックスを含む全体の約3分の1が欠けているけれど、計1時間20分におよぶモノクロームの映像はいまのわれわれの目にもまばゆく迫ってくる。

 
「人生は歩みなり そは死に至るまでの いとも苦しき歩みなり」

 
そんな字幕で映画はスタートする。可憐な少女、中村すみ子(高津慶子)は、貧困のせいで両親に捨てられ親戚へ預けられるが、そこも生活苦は同じで、わずかな金で売り飛ばされた曲芸団ではストライキまがいの騒動に巻き込まれ、世間の荒波を漂うように県会議員の女中奉公、琵琶師匠の住み込み……と転々としたのち、かつて曲芸団で恋仲だった青年と再会して所帯を持ったのも束の間、過酷な現実の前にふたりは入水心中に追いやられながら死に切れず、かろうじてキリスト教の救護施設「天使園」に流れついたものの、そこもまた偽善の館と思い知ると、彼女は怒りを爆発させる。

 
この少女は一体、何者だろうか? 実は、鈴木重吉監督はこの作品を手がける直前、約1年間にわたってヨーロッパとアメリカへ映画界の視察旅行に出かけている。そのころ、大きな注目を集めていたのが、デンマークのカール・ドライヤー監督がフランスに呼ばれて撮ったサイレント映画『裁かるゝジャンヌ』(1928年)だった。

 
イングランドとの百年戦争に揺れる15世紀フランスで、祖国の救済のために立ち上がりながら異端裁判で断罪された悲劇の少女、ジャンヌ・ダルクが、ローマ教皇によってカノニゼーション(列聖化)されたのは1920年のこと。それをきっかけにつくられたのが、この作品だ。約500年前に行われた実際の裁判記録にもとづき、老練な審問官たちが泣き濡れた少女を責め立てるやりとりがえんえんと、双方の顔のクローズアップで再現される。ついにジャンヌは魔女の汚名を着させられて火刑台上で炎に包まれ、それを目の当たりにした民衆が立ち上がって暴動を起こす。

 
その映像のめざましさには、鈴木監督も影響を受けたのたに違いない。原作は藤森成吉の戯曲で、山本安英らによって築地小劇場で演じられてきた芝居の『何が彼女をさうさせたのか』を映画化するにあたり、ドライヤー監督の手法に学んだのだろう、極端な登場人物の表情のクローズアップを多用して、おびただしい顔、顔、顔……をぶつけあうことで生々しいドラマを築きあげるのに成功している。すみ子は絶望の果てに、みずからの手で「天使園」に火を放ち、高らかに十字架を掲げた建物は猛然と火焔を噴きあげる。そして、画面に文字が浮かぶのだ。

 
「あゝ赤い天使が 舞つて行く… 何が彼女をさうさせたか」

 
前記したとおり、この壮絶なクライマックスは欠落しているため見られない。伝えられるところによれば、公開当時、このシーンに到達すると客席から澎湃と「内閣のせいだ!」「社会のせいだ!」といったシュプレヒコールが起こり、異常な興奮に包まれたという。無辜の少女がこぼすとめどない涙と引き換えに、紅蓮の炎が天地を引き裂くなか、現実社会の不条理が炙りだされて民衆を突き動かす。それは映画という新興メディアの力が、時空をはるかに超えて、ジャンヌ・ダルクを極東の島国によみがえらせた姿だったのかもしれない。

 
わずか足かけ3年で終焉した「傾向映画」の黄金期は、もはや記憶の彼方に押しやられようとしている。そのあえない歴史に較べたら、今日の映画をめぐる状況はずっと恵まれていようが、さて、われわれの眼前のスクリーンにふたたびジャンヌ・ダルクが出現することはあるのだろうか?


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