アナログ派の愉しみ/本◎谷崎潤一郎 著『春琴抄』

わたしを呪縛した
かくも美しく恐ろしい文章


高校の学習指導要領で国語の「現代文」が改訂され、「論理国語」と「文学国語」の選択制になったことについて論議を呼んでいるが、文豪・谷崎潤一郎も存命だったら大いに異を唱えただろう。その著作『文章読本』(1934年)において「文章に実用的と芸術的との区別はない」ことを強調し、「余計な飾り気を除いて実際に必要な言葉だけで書く、と云うことであります。そうしてみれば、最も実用的なものが、最もすぐれた文章であります」と述べているからだ。

 
必要な言葉だけで書く――。それはそのとおりだろう。しかし、言うは易く行うは難し。実用的に必要な言葉だけで書きながら芸術的な境地までに至るとは、だれでもできることではない、むしろ離れ業に近いのではないか。そして、わたしがこれまで見聞したかぎり最高の実例は、谷崎自身の手になる『春琴抄』(1933年)だ。『文章読本』はこの作品の翌年のものだから、実際に必要な言葉だけで書くと論じた際には、その執筆体験が生々しく念頭にあったのだろう、とわたしは睨んでいる。

 
もっとも、正直に告白しておくと、高校のころに初めて『春琴抄』を読んだとき、わたしはその魔性の世界に取り込まれたあげく、およそ想像を絶する場面へと導かれて激しい衝撃を受けた。それがトラウマとなり、以来いくつもの谷崎作品に親しんだが、『春琴抄』だけは書棚の奥深くに仕舞い込んだきりで、今度この記事を書くために呪縛を解いたのは半世紀ぶりのことだった。

 
「春琴、ほんとうの名は鵙屋(もずや)琴、大阪道修町の薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある」とはじまった物語は、ことほどさように味も素っ気もない文章で紡がれる。その大店の娘は幼くして透き通るような肌とたぐい稀な器量に恵まれながら、9歳のときに病気で失明し、両親がいっそう甘やかしたために、このうえなく驕慢な性格を育んだといういきさつが、新聞記事のように簡単明瞭な、しかし気づけばじわじわと行間から香気が滲みだす筆致で綴られていく。

 
盲目の身となった春琴は音曲の道に精進して才能を発揮し、四つ年上の丁稚・佐助がその世話を無上の喜びをもってこなし、やがてふたりは三味線の師弟関係も結んで、勘気の強い春琴がしばしば打擲して佐助が泣きわめくといった歳月を経たのち、ふいに春琴の妊娠が判明して、鵙屋では両人の婚姻を許そうとしたものの、春琴は断固拒絶して佐助によく似た赤ん坊を里子に出してしまう。そんな春琴が20歳で独立して音曲師匠の門戸を構えて、間もなく事件が勃発する。正体不明の闖入者にどんな恨みがあってのことか、彼女の顔に熱湯を浴びせかけたのだ。こうして美貌が失われたのち、佐助が女主人に絶対の忠義を尽くすべく、わたしを震え上がらせた衝撃の場面がやってくる。

 
いささか読みづらくとも、ここは谷崎の筆がしたためた形で引用しよう。余計な修飾語のみならず、段落の改行や句読点までも削り取って、徹底して必要な言葉だけで書かれたとおりに。

 
それより数日を過ぎ既に春琴も床を離れ起きてゐるやうになり何時繃帯を取り除けても差支えない状態に迄治癒した時分或る朝早く佐助は女中部屋から下女の使ふ鏡台と縫針とを密かに持つて来て寝床の上に端座し鏡を見ながら我が眼の中へ針を突き刺した針を刺したら眼が見えぬやうになると云ふ智識があつた訳ではない成るべく苦痛の少い手軽な方法で盲目にならうと思ひ試みに針を以て左の黒眼を突いてみた黒眼を狙つて突き入れるのはむづかしいやうだけれども白眼の所は堅くて針が這入らないが黒眼は柔かい二三度突くと巧い工合にづぶと二分程入つたと思つたら忽ち眼球が一面に白濁し視力が失せて行くのが分つた出血も発熱もなかつた痛みも殆ど感じなかつた此れは水晶体の組織を破つたので外傷性の白内障を起したものと察せられる佐助は次に同じ方法を右の眼に施し瞬時にして両眼を潰した尤も直後はまだぼんやりと物の形など見えてゐたのが十日程の間に完全に見えなくなつたと云ふ。程経て春琴が起き出でた頃手さぐりしながら奥の間に行きお師匠様私はめしひになりました。もう一生涯お顔を見ることはござりませぬと彼女の前に額づいて云つた。

 
まるで理科の教科書か料理の手引書のように実用的にして、かくも美しく恐ろしい文章をわたしは他に知らない。



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