鶏の天ぷら

裏町の大衆中華[新大蓮]のチーフ    第1章 その②

 まだバブル前の1980年頃。人と人が擦れあうようにして生きていたあの頃。その頃の僕の目には、大阪の中心街が途轍もなく眩しく見えていた。街には嘘や憎しみ、別れなどの溢れんばかりの悲劇もあったが、それに負けないだけの喜びもまたあった。
 それに比べて、大阪郊外の北摂、茨木市の町外れに佇む[北京料理 新大蓮]は、そんな都心の華やかさとは全く無縁だった。
 これは、そんな町外れの小さな大衆中華店で繰り広げられた、いつもロンピーを燻らせたニヤケ顔のチーフとの、垢ぬけなく泥臭い想い出話である。

第1幕 メインストリート「イナイチ」
その② はじまりは「鶏天」 

 僕が[新大蓮]を初めて知ったのは、高校に入学して3ヵ月ほど経った頃のこと。中学の同級生で仲良しだった空本博文が、[新大蓮]で働き出したのがきっかけだ。彼は頭のてっぺんから足の先まで、絵に描いたような不良少年だった。まだ中学生だった頃、「また誰か殴り合いのケンカやってるなぁ」と思ったら、だいたいそこには空本がいた、というくらい純度の高いヤンキーだった。空本は高校に入学した直後に乱闘騒ぎを起こして退学処分となってしまって、母親の知人でもあった[新大蓮]のチーフに拾ってもらったというわけだ。

 そんな空本からある時、「学校をクビになって中華屋に就職したから遊びに来いや」という電話が入ったので行ってみると、「めっちゃうまいもんを食べさせたるわ」と言って、「鶏の天ぷら(鶏天)」なる料理をご馳走してくれた。これが本当に美味しすぎて、びっくらこいたのだ。
 むらなく美しい黄色の衣に包まれて、ラードの風味をいっぱいに含んだ蒸気がシュワシュワと天ぷらの周囲に漂っている。食感はさくっとしつつも真綿のようにしっとりとしていて、真っ白な鶏の身からは透明な肉汁が溢れている。隣に添えられた山椒の香りがする塩をつけると、さらに食欲が沸き出してくる。
 これがまた白いご飯と合うのなんの。さらに単なる飾りと思っていたキャベツの千切りや串型に切られたトマトも、この塩と天ぷらの油がちょびっとつくだけで絶品のおかずになるからスゴい。思わず我を忘れてしまう、まさに魔性の天ぷらと山椒塩だった。

  メニュー名も悩ましい。中華と言えば「鶏の唐揚げ」と違うんか!? でも「唐揚げ」じゃなくて、「鶏の天ぷら」だ。なぜ天ぷらと呼ぶのかチーフに尋ねると、「こういうのはみんな、天ぷらって呼ぶんや」というよくわからない返答だった。
 その時は僕なりに、唐揚げはガリガリと硬い食感なのに対して、天ぷらはサクサクと繊細な歯応えなのかな、と勝手にイメージした。

 なんであれ、こんなに美しい料理を作っては、パチンコ中毒の廃人まがいからトラックの運ちゃん、スナックのチーママみたいな派手なおねぇさんまで、店に来るありとあらゆる人種を「うまい!」っていう人間らしい穏やかな表情に変えてしまうチーフが、誰よりも格好良く思えた。
 僕が当時知っていた同じ大人でも、高校の教師はほんまに口だけやと思っていたので、余計にチーフのことを格好良く感じていたのかもしれない。

 こうしてすっかり[新大蓮]の山椒塩の鶏天とチーフに心を奪われてしまった僕は、とにかくまた鶏天が食べたくて、既に高校1年の頃にははまっていた麻雀ゲームやパチンコに、より一層励むようになる。早い話が賭け事だ。その頃、僕の相場はだいたい1万円前後。当時の高校生にしてみれば目が飛び出るほどの高額だったかもしれないが、麻雀やパチンコでは遊びもいいところの金額だ。その頃の僕にとっては、バイクのローン、ガソリン代、毎朝夕の喫茶店代、タバコ代、酒代、そして次なる賭け事の軍資金など、毎日の活動経費がそれなりに必要だった。そこに[新大蓮]の鶏天600円とご飯大盛り200円の分も稼がなきゃいけない。  

 しかし僕がそんな日々を過ごしていたある時、空本は「中華よりバイクのほうが楽しいわい!」と言って[新大蓮]をとっとと辞めてしてしまって、近所の市場の中にあった2輪ショップに転職してしまった。
「いったい何事か!?」と思ったが、元々、空本は心も身体も猫みたいに身軽な男で、とにかく後腐れのない性格だったので、別にチーフとケンカして辞めたとかいうことではなく、単純にバイクの修理の方に興味があったようだ。

 僕は僕で空本とも遊びたいけれども、[新大蓮]の鶏天も食べたくてしょうがないので、空本が辞めた後も1人で[新大蓮]に通い続けた。
 僕は高校時代から、1一人でも誰かと一緒の時でも、ほぼ毎日、朝は行きつけの喫茶店に始まって、午後には他の喫茶店や大衆食堂、庶民的なレストランと、新たな発見を求めてはお店を渡り歩く癖があった。今振り返ると、学ラン着た手ぶらの少年が1人で飲食店に入ってきて、煙草ふかして日替わりのランチやコーヒーを飲み食いしているのだから、周りから見ればかなり変だったと思う。
 たまに行っていたパブでは、「絶対、君は高校生のフリした子持ちのお父さんやろ!」と言われていたほどに、当時は見た目も仕草もおっさん臭かった。しかし、当の僕にとっては、そんな毎日もきわめて自然だった。とにかくもっと稼いで、もっと街の飲食店に通って、加えてバイクを充実させていきたいという想いでいっぱいだったのだ。

 そんなアンバランスだった高校生の僕を見かねてか、ある時、[新大連]のチーフが声をかけてくれた。
「お母さん1人働かせて、自分はバイクと賭け事ばかりしとったらアカンで。ちょうど人手が足らんから、うちでバイトしたらええわ。どうや、やってみるか?」

「あの鶏天をただで食べられるかも? しかもしょっちゅう? イエ~イ、こんな素敵なバイトはまたとない!」
 チーフの誘いに僕は二つ返事で働かせてもらうことにてなって、高校1年の終り頃から、めでたく[新大蓮]でバイトを始めることになったのだ。

 が、やっぱり現実はそんなに甘くなかった。
 チーフはとにかく、麺とニラが大好きだったのだ。隙あらばラーメンとニラ炒め、たまにニラ玉炒めとご飯、贅沢デーならレバニラ炒め、という毎日である。酷い時には、ラーメンの上からニラと豚ミンチのあんかけをかけたニララーメンなるものを食べては、「はぁ、なんでこんなにうまいんやろ。そう思わんかカワムラ君!」という始末。

 そんな時、僕はひしひしと思った。
「何故だ! なぜあれほどうまい鶏天を作れるのに、今日もこれなのだ?」

 働き始めてから徐々にわかってきたのだが、どうやら[新大蓮]では鶏肉は想像以上に特別な素材だったのだ。
 というのも、鶏天で使われていたのは、スーパーで売っているような部位ごとに分けられた肉のパック詰めとかではなく、丸鶏の解体品だった。毎朝のように鶏肉業者から届けられる、締めて間もない毛のみ剥がされた丸鶏をチーフが包丁で各部位ごと切り分けて、その中で胸肉や腿、時にササミなどが鶏天になるのであった。だから、数に限りがある貴重な素材であり、それを自分たちのまかないのために、わざわざ味付けして衣をつけて油で揚げるなんてことをするわけがない。僕が口にできるのは、せいぜい味見と称して、客の注文があった時についでに一つ二つ食べさせてもらえる程度だった。

 それからしばらくして、バイトを始めて数か月が経った頃、高校2年になった僕は[新大蓮]を辞めてしまう。
 まかないのニララーメンが嫌だったからというのは嘘で、なんと僕にも彼女ができたのだ。同時に、それまで掛け持ちしていたレストランの皿洗いのバイトも辞めた。彼女とのデートはいつもバイクで飲食店を巡ったいたので、本当はもっとお金が欲しかったのだが、恋愛に最も重要なのは2人だけの時間だったのである。ましてや放っておいても顔にニキビが溢れてくる高校時代。寝ても覚めてもアノ事しか頭になかった。
 そんなわけで、毎日おふくろからもらっていた昼飯代の500円も賭け事に突っ込んで、それ以外はひたすらあの事だけ、という生活を繰り返していた。
 そうこうしているうちに、何がいけなかったのか、ある日突然、彼女に「あんたはアホや! 私と身体のどっちが好きなんや!?」とキレられて、「ほんなもん、お前に決まっとるやろ!」と言い返したら見事に振られてしまった。

 それからというもの、僕は心を入れ替えて、酒屋の配達やそば屋の接客、餅屋で餅をこねる仕事など、手当たり次第にバイトをしまくって、バイクの改造費やガソリン代、賭け事の軍資金にしていた。

 そんな荒波の高校生活(全部自業自得だが)を送るうちに高校3年になった頃、僕はバイクレースを始めるようになった。レースに参加するには当時の僕にとってはあまりにも莫大な費用が必要だったが、頑張ってプロになったら一攫千金も夢じゃないと当時は本気で信じていた。ファミリーバイクを改造してのレースから始まって、400㏄の市販バイクの改造クラスへと突き進み、目指すは鈴鹿などの名門サーキットで開催されていた公式のシリーズ選手権だ。

 やがてレースのライセンスを取得することになった時、まだ未成年だったので親の承諾書が必要になって、おふくろにお願いしてみたけど、おふくろは泣きながら断固反対。
 おまけに、大学に進学するやすぐに中退、「俺はヘヴィメタバンドで飯を食うのだ!」と宣言して、ロン毛でいつもピチピチのほっそいパンツを履いてた兄貴が出てきて、
「おのれっ、バイクレースなんぞで車イスになったり死に態にでもなったら、ぶっ殺すからな。その覚悟があるんやったら、この家を出てからやれ! このボケ茄子が!」と恫喝される始末。当時の兄貴はすぐにキレるし、無表情のままで人をぼっこぼこに殴るので実に怖かった。

 だが、僕の決意は揺るがなかった。何とか強引にライセンスを取得。当時乗っていたホンダのスーパーホークⅢという400㏄のバイクをチューンナップして、各地のサーキットへ足繁く通った。

 その頃、僕が何故そんな無茶な夢を追いかけるようになったかと言うと、(他人のせいにするつもりはないが)やっぱり空本の存在が大きかった。最初にバイクレースをやりだしたのは空本だった。
 当時、空本の他に仲の良かった友達が3人いたが、彼らは冷静な性格であまり無茶なことはしなかった。
 彼ら3人と空元と僕を含めた仲良しの5人組の1人の浅賀は、中学時代には全校生徒1500人の中の番長として周囲から崇められていたような切れ者で、中学3年ですでに彼女と同棲を始めて、中学を卒業するとすぐに鉄工所で働き出して、18歳の頃には独立、自営していた。
 あと通称「ナマズ」は、わがままで空気が読めないタイプだったが、人懐っこい優しい男だった。
 そして残る1人が武田義信で、僕も含めた他の4人とは違う中学の出身だったけど、高校は僕と一緒で、僕が失恋した時には一緒に泣いてくれるようなナイスガイだった。その武田を我々5人組に巻き込んだのは僕である。

 僕ら5人組は周りからは不良のように見えていたけど、全員、中学時代は水泳部だった(隣町の中学だった武田もまた水泳部員だった)。我々の中学校の水泳部は大阪でも上位に入るような強豪チームで、部員が5〜60人いるような規模だった。
 浅賀と空本はろくに練習もせずにタバコやシンナーばかり吸っていたのだが、それでも水泳部を退部はせずに、夏の猛暑の時に少しだけ水浴びにやってくるというようなふざけた具合だった。
 一方、一応練習には参加していたけど怠け癖があったのがナマズ。彼は小学生の頃からスイミングクラブに通っていたので経験を積んでいて、それほど筋肉質でもないのに、元々手足が長かったので水泳向きで、大阪大会では必ず決勝に残るほどだった。才能があるとはまさにこのことだ。

 その頃の僕たちは共通して、家にいるよりも5人で交尾んでいる方が楽しかった。
 浅賀の両親はすごく良い人だったが、3歳年上の兄貴がちょっと変わっていて、巨大な暴走族の頭をやったり、その噂を聞きつけたその筋の人が家までスカウトに来たら怒鳴り散らして追い返したりと、手の付けられない速攻爆発型だった。
 空本の父親も大人しくて良い人だったが、保険レディだった母親は『ウルトラQ』に出てくる小型怪獣のカネゴンにそっくりだった(笑)
 ひとりっ子だったナマズの両親もめちゃくちゃ良い人。
 武田はお母さんを亡くしたばかりで、働き者のお父さんはいつも仕事で不在がちだった。

 僕も含めて、みんな家に特別不満があったわけではなかったけど、5人で交尾んでいると何か安心感を得られた。夜になるといつもどこかで肩を寄せ合って、徹夜で麻雀したり、夜通しバイクを走らせては日本海まで海を見に行ったりした。
 浅賀は立派な社会人として早くから成功していたので、我々も続けと言わんばかりに、これからどうやって生きていくのか、何が何でも成功すべし、という意識をみんな常に持っていた。
 その頃、僕らは家族同然だった。

 そんな5人組みの中で、空本と僕がバイクレースへと走ったのだ。
 バイクレースの魅力はスピード感やマシンの精巧さにもあったが、何よりもレーサーという職業が格好良く思えた。勝ったら表彰台でシャンパン抜いて、大勢の人から賞賛されて、大金持ちになって、美女からモテるはず。
 当時、そう信じていたのは雑誌や映画からの影響が大きくて、特に高校2年の時に公開された草刈正雄が主演の映画『汚れた英雄』が決定的だった。当時この映画を見て、大好きだったタバコも酒もやめて、毎日リンゴを食べてはジョギングも習慣づけて、しっかり身体を鍛えた。
 高校3年の時には、自分たちで『ライダー』というタイトルの8ミリ映画を製作して、高校の文化祭で放映した。
 その頃、僕らの頭の中は「レースと金持ちと美女」のことでいっぱいだった。そのためにはどんな困難も乗り越えてみせる、そう硬く決心して、僕は空本が働いていた2輪ショップに毎日通って、勝手に店を手伝ってはバイクの整備を体得していくという生活だった。

 その空本が働いていた2輪ショップからバイクで5分ほどの距離に[新大蓮]はあった。僕はバイトを辞めた後も、あの鶏天が食べたくて、たまに[新大蓮]に顔を出していた。
 そのうちに、今度は僕の方からチーフに改めてバイトを申し出る。バイクレースでサーキットへ行く時には自由に休ませてもらうという条件も、チーフは快く許してくれた。
 こうして僕は、また[新大連]で働くようになったのだ。

                             (続く)


●カワムラケンジ
スパイス料理研究家、物書き。1980年から様々な飲食業の現場を経験し、スパイス&ハーブの研究を始める。1997年に100%独自配合・自家製粉によるスパイスのカレー専門店を開業。1998年には日替わりインド定食の店[THALI]開業。2010年に『スパイスジャーナル』を創刊(全18巻)。これまでの著書に『絶対おいしいスパイスレシピ』(2015年・木楽舎)、『おいしい&ヘルシー!はじめてのスパイスブック』(2018年・幻冬舎)がある。現在、BE-PAL.netで連載中。
◎ 大阪府吹田市藤白台1-1-8-204 090-3864-9281
thali@nifty.com www.kawamurakenji.net 


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