社会から学校教育を見る👀

 今日はある研究会に参加した。そこで感じたことを記録しておきたい。

①当事者の語りは当事者だからこそ語れるものであるということ
 本日の登壇者の方々は、元不登校・ひきこもり経験のある方やそのご家族、その方々の支援団体の方々だった。それぞれがそれぞれの立場や視点からお話され、どの方も自分の言葉で語っておられたが、やはり、当事者だからこそ語れる言葉や伝わる雰囲気がある。不登校・ひきこもり経験のある方がご自身の経験を語ると、その言葉の後ろには様々なものを背負っていることが感じられた。この背景にあるものを意識することができるようになったことは大学院での学びの一つである。私は当事者ではない。でも、当事者の立場に立つこと、言い換えると、当事者意識を持つことはできる。しかし、当事者意識は勝手に身に付くものではない。当事者を知り、対話し、かかわることで他人事にできなくなったとき、初めて当事者に寄り添おう、当事者の立場に立とうとするのではないか。

②wordやworldはそれを必要とする方々がいることへの気付きのためであって、分断や区別、差別のためではない
 不登校、ひきこもり、問題行動、発達障害、学習障害、LGBTQなど、社会には様々なwordが存在する。このwordがあることでworldができ、安心したり、救われたりする方々がいる。あるworldがつくられると、居場所を求めてやってくる方々がいる。このworldの存在は無くてはならない。しかし、一方でwordやworldが人々の分断や差別、分かりあえないことを仕方ないとしてしまうことにつながっているとは言えないだろうか。結果的に、特定のworldの中でしか居場所を見つけられないという生きづらさにつながっていないだろうか。大事なことは、wordというフィルターを通して他者を見るのではなく、「あなた」を見ることではないだろうか。誰もが「自分を生きる」ことができる社会をつくることではないだろうか。

③「未来」よりも「今」を必要とする方々がいる
 フリースクールを開いている方にお話を聞いた。フリースクールに通う方の中には、自殺を図ろうとした方もいる。そのような方々に「未来」とか言えない。必要なのは、「今」ここにいることを認められること。自分の「今」の思いや「今」の存在が受けとめてもらえることである。

④褒められて上がるのは「自己評価」
 子どもの多くが自分の根っこにある感情に蓋をし、「自分がどう生きるか」を他者の顔色や評価で決めているらしい。本来、自己肯定感は状況によって上がったり下がったりするものではない。褒められることで上がるのは自己評価。「ありのままの自分でいい」という「実感」の蓄積が自己肯定感を膨らませる。私自身、自己肯定感が膨らんでいるかと言われると、自分のできないことも含めて自身をまるごと受けとめることはできていない。でも、できていないからこそ、そんな私と出会ってくれる他者が少しでも「自分が自分であっていい」と思えるように関わりたいと思う。

⑤「自分を語ること」は簡単ではない
 当事者意識を持つためには、当事者を知り、対話し、かかわることが必要であると述べたが、当事者の方にとって自分を語ることはものすごくものすごくハードルが高い。それは本当にそうだ。なぜなら、自分を語ることは自分の過去(どんなに消去したいものであっても、受け入れられないものであっても…)に向きあわないといけないから。語ると、フラッシュバックしてしまうから。ここでも、社会から自分がどう見られるのかが自分の経験への意味付けに影響を与えていると思う。自分を生きるということは誰の顔色も評価も気にせず、自分が決めることから始まるのではないだろうか。その決定が安心してできるような居場所や社会をつくっていくために主権者として何ができるのだろうか。

⑥一人ひとりが社会の主権者
 このシンポジウムの中で「社会が悪い」、「学校教育が悪い」という言葉を何度も聞いた。学校教育を専門に学び、そこに身を置こうとしている私にとっては逃げ出したくなるような感情を覚えた。責められているわけではないが、責められているような気がしてならなかった。でも、そこにいる誰もが学校教育を教育現場という中から変えていくことはできないのである。「学校教育のここが悪い」と指摘することはできても、実践を通して変えていくことはできないのである。改めて、主権者としてどのように社会の変革に関わっていこうかと考える人でありたい。つくられた社会の中での変革ではなく、誰も見たことのない社会をつくる主権者になりたい。また、変革の実践者でもありたい。「私一人に何ができるん…」と思ってしまったら、そこまで。焦らず、ゆっくりと、でも、確実に自分がするべきこと、したいことをしていくことしかできない。それがどこかの、何かしらの変化につながっていると信じて。

 最後に、改めて、学校教育はなくてはならない、かつ、変え続けなくてはならない感じた。誰のための、何のための学校教育なのか、それを突き詰めて言語化しないといけない。今の時点でこれを明確に言葉にすることはできないが、ただ一つ言えることは、誰もが幸せになる権利を持っている。しかし、これを行使するために闘わなければならない社会が現在の社会である。そんな社会を、誰もが「自分がここにいる」ことを味わい、それぞれの幸せをあたりまえに感じられる社会に変えることはできる。そんな社会をつくりたい。そんな社会の創り手の一人に私はなりたい。そのために今の私の考え方や価値観、理想像を問い直し、信じてあげながら、歩んでいければと思う。



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