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狂気の中の正気──『南京の真実』読書感想文

南京事件の時、南京に駐在していたドイツ人の商社員であり、南京事件中の通称「安全区」の責任者であったジョン・ラーべ氏の手記をもとにした書籍。


南京事件|日中戦争初頭の1937年(昭和12年/民国26年)12月、日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約2カ月にわたって多数の中華民国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵および一般市民を殺害、強姦、放火したとされる事件

Wikipedia「南京事件」

この事件に関する南京の被害・犠牲者はさまざまな説がある。
中国側・日本側の言い分は、被害者・加害者としての当事者であるという背景を多分に含んでおり、事実が歪められているという印象を受けるものが数多くある中、いわゆる当事者でない第三者として現場を経験したラーベ氏の手記は、彼が目にした範囲の物事は少なくとも確実に起こっていたと多くの人に知らしめる非常に貴重な資料だと思う。

以前に読書した『夜と霧』と同じくらい、非常事態時の人間の本質について考えさせられる本でもあった。


ラーベ氏の人格

この本の日本語訳でも問題になったとされる「南京のシンドラー」という称号から、後世にはラーべという人物を英雄のように扱う向きもある。
彼の行ったことは、人間として賞賛されるべき行為であることは間違いない。自分の命も危ぶまれる中で他者のために尽くし寄り添うことは誰にでもできることではないし、結果として20万人以上の人の命を救った彼の行動は「英雄」というにふさわしいと思う。

しかし手記から見える彼の姿は、何かを成し遂げようとかいう大志だとか野望だとかにはとにかく無縁だった。目の前で起こる悲劇をなんとか解決しようと必死に手を尽くした結果、たくさんの人の命が救われたが、その事実を彼が手柄として誇ったりすることはついになかった。
彼はただただ謙虚で、公平で、実直で、誠実で、情に厚い──そういう人だったのだろうと思う。

日本軍が南京を攻略する直前、南京に残るという決断をしたラーべ氏の手記にはこのように書かれる。

誰もかれも先を争ってわが家の防空壕に入りたがる!なぜだかわからない! うちのはおそろしく頑丈だと噂が立っているらしい。これを作ったとき、せいぜい十二人とふんでいた。ところがいざ入る段になってみると、ひどい計算違いをしていたことがわかった。総勢三十人。すし詰めだ。
いったいどこからこんなに大ぜいの人間がやって来たのかって? なに、簡単さ! うちのボーイにはそれぞれ、妻や子、父、母、祖父、祖母がいるのだ。だれもいなければ、どこからかつれてくるだけのことだ! いやはや、たくましいかぎりだ。それだけではない。近所の一家までかかえこむはめになった。この男は靴屋で、戦争前、私はやつに腹を立てたことがある。「必要経費」だといって、ブーツの勘定に20パーセントも上乗せしてきたのだ。
ところがどうだ、今度突然うちのボーイの親戚だということがわかったというじゃないか。しかたない。みんな入れてやった。断ったりしたら活券にかかわる!

「迫り来る砲声」より

立場のあるものとして振る舞いたい、人を裏切りたくない、でも今の状況にたくさんの不満はある。正直な彼の気持ちが、ストレートに伝わってくる。
こういう文章を書く人なのだ。

1937年当時の手記からは、生粋のナチ党員としてのラーべ氏の姿勢が垣間見える。それは(特にその時点では)彼が純粋にヒトラーを「虐げられる労働者を救う存在」だと信じているからに他ならず、それ以上でもそれ以下でもない。

持ち物を整理していたらたまたま総統の写真が出てきた。ヒトラー・ユーゲントのリーダー、パルドゥア・フォン・シラッハの詩が添えられている。
〜中略〜 
これを読んでふたたび勇気がでた。ヒトラー統はきっと力になってくださる。私はあきらめない。「君やわれとひとしき素朴で飾らない人」であるあの方は、自国民だけでなく、中国の民の苦しみにも深く心を痛めてくださるにちがいない。ヒトラーの一言が、彼の言葉だけが、日本政府にこの上ない大きな影響力をもつこと、安全区の設置に有利になることを疑う者は、我々ドイツ人はもとより、ほかの外国人のなかにもいない。総統は必ずやそのお言葉を発してくださるだろう!

「南京安全区国際委員会の結成」より

ラーべ氏は周囲から評価される有能なビジネスマンであり、人の心理を理解し、立場や状況を判断して動ける人であった。ただそれ以上に、彼は目の前の人間を愛し、目の前の人間を信じたいと思う、心から優しい人だったのだと思う。
そして、虐げられる存在を救いたいと願い、それを自分の心に照らして実行にうつす人であった。

私はナチ党員だ。だから、私がいう労働者とは、ドイツの労働者のことであって中国のではない。だが、かれらはそれをどう解釈するだろうか? この国は三十年という長い年月、私を手厚くもてなしてくれた。いま、その国がひどい苦難にあっているのだ。金持ちは逃げられる。だが貧乏人は残るほかない。行くあてがないのだ。資金もない。虐殺されはしないだろうか?  かれらを救わなくていいのか? せめてその幾人かでも?
しかも、それがほかでもない自分と関わりのある人間、使用人だったら?
私はついに肚を決めた。そして留守に使用人たちが掘った陥没寸前の汚い防空壕を作り直し、頑丈なものにした。
そこへわが家の薬箱をそっくり持ちこんだ。

「迫り来る砲声」より

南京の真実

この手記を読んだら、南京での残虐な行為が「なかった」とは到底思えない。

町を見まわってはじめて被害の大きさがよくわかった。百から二百メートルおきに死体が転がっている。調べてみると、市民の死体は背中を射たれていた。多分逃げようとして後ろから射たれたのだろう。
日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。

「日本軍入城/残虐行為のはじまり」より

アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。
「安全区は日本兵用の売春宿になった」
当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。

「日本軍入城/残虐行為のはじまり」より

日夜問わず、強姦を目的に自邸の中にまで入り込んでくる日本兵。安全区から理由をつけては一般人が逮捕され引き出されてどこかで殺される。安全区の中でさえ毎日がこのような様子なのに、ましてやその外は、だ。

狂っているとしか思えないし、実際に同じ日本人からしても「あまりに恥ずかしい行為」だと受け止められていたにも関わらず、中国人への狂った行為は止まなかった。

安全区を出て人気のない道を行く。どの家にもそのまま入っていける。ドアが軒並みこじ開けられているか、大きく開けっ放しになっているからだ。そして、くりかえしすさまじい破壊の結果をみせつけられる。なぜこんなに野蛮なのか、理解できない。思えばこれは実に衝撃的なことだ。
いったい何のためにこれほどひどいことをするのだろう。ただただわけがわからない。日本大使館の態度から、軍部のやり方をひどく恥じていることがずっと前からわかっているだけになおさらだ。なんとかしてもみ消そうとしている。南京の出入りを禁止しているのだって、要は南京の実態を世界に知られたくないからだ。

「荒廃する南京」より

手記の中には、兵士の暴走を止められないもしくは見て見ぬ振りをする日本大使館や軍部への憤りなどが見え隠れする。

この一週間、おびただしい数の死体を見なくてはならなかった。だから、こういうむごたらしい姿を見ても、もはや目をそむけはしない。クリスマス気分どころではないが、この残虐さをぜひこの目で確かめておきたいのだ、いつの日か目撃者として語ることができるように、これほどの残窓な行為をこのまま闇に葬ってなるものか!

「荒廃する南京」より

正しいこととは何か

ラーべ氏のドイツ帰国後・戦後の生活は、彼が成したこと・彼が信じたことの見返りとしてはあまりにも酷なものだったといえる。
そういう時代だったと片付けていいものなのか。ラーべ氏が本当に何を望んでいたかはもちろんわからないが、善は必ず報われるということではない。

編者のエルヴィン・ヴィッケルト氏は「ヒトラーとラーべ」の章でこう述べる。

日本民族が戦争犯罪についての真相を知ることは意味がある。だが、このような残虐行為が、単に日本人だけではなく、人類共通の問題であること、つまり、戦争犯罪を起こしやすい国民があるのではなく、すべての人類の問題であるということを知らずに、日本人に罪を負わせ、謝罪を要求するのは、傲慢であり、また独りよがりというものである。
ラーベは罪を日本民族のせいにはしなかった。「すべての国民に善良な要素と悪質な要素があり、立派な人間と犯罪者がいる。戦争になると、残念ながら犯罪性が表面に現れてくるものなのだ」(「忘れないために』という題の、子孫のために書かれた短い原稿より)
同じような考えを述べているのは、彼だけではない。マギー牧師は例のフィルムの冒頭で、ジャーナリスト、ティンパレーは南京虐殺についての著作の中で。何年も日本で過ごした私は、日本で生涯の友人を得た。かれらはこのような残虐行為を聞いた解に苦しむだろう。恥ずかしさに顔を隠すだろう。だがその一方で、それらの事実を認めたがらないような日本人が、いまだに存在していることもまた事実なのだ。

「ヒトラーとラーべ」より

すべてが明るみに出なくても、起こった事実は事実だ。
一番大切なのは、この手記を読んだ私たち自身が今後どのように振る舞うかなのだろう。
このような事態に直面した時に、加害者に加担せず、なるべく事態を好転させるような振る舞いができるだろうか。

「できる」と胸を張って言えない自分がいる。そんな自分の不甲斐なさが悲しい。だから悲劇は繰り返されるのだ、と。その片棒を担ぐのは、自分自身かもしれないと。
少なくともその弱さを自覚しておこうと思う。

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