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そういう考えはなかったわ、と気づく──『コーランを知っていますか?』読書感想文

昨今の世界情勢を見るときに「イスラム教のことを知らない」では何もわかることがない。
イスラム教の聖典である『コーラン』についても、さわりだけでも一般常識として知っておくべきだろうと思ってはいたものの……コーランそのものを読むのは、たとえ日本語訳であっても難しそうだ。

ということで、旧約聖書・新約聖書同様にまた阿刀田さんの著書に頼ることにした。


コーランは親父の説教?

各聖典の特徴を阿刀田さんは下記のように述べている。

旧約聖書と新約聖書について私見を述べれば、旧約聖書は古代ユダヤ王国の建国史として読むことができる。新約聖書はイエス・キリストの伝記として読むことができる。

第1話 扉を開けると より

旧約聖書・新約聖書の見立ては私もすごく同感。
ではコーランはというと、

親父の説教に似ているなあ

──だそうだ。
本書内にも随所に「コーランにはストーリー性はない」という記述が散見される。あくまで論述の方法についてだというが、解説を担当しているイスラム研究者である池内恵さんも、

コーランには全編を通したストーリーがない。全編どころか、各章にも明確な筋があることはほとんどない。 〜中略〜 愛も恋も、人間的な情も主要な関心事ではない。あるのはひたすら神の一人称からの命令である。

解説 より

こう言っているのだから、阿刀田さん特有の見解ではないのだろう。

これはますます宗教的な関心がなければ読破が難しそうだなと思う。読み切る難易度でいえば、旧約聖書や新約聖書の比ではないかもしれない。

そんなコーランだが、本書を読んだ印象のみでいうと、書いてあることが超細かい
本書に引用される部分は、日常のルールブックのような様相を呈している。
妻帯のしかた、離婚のしかた、遺産相続の配分など……(しかもたまにマホメットにとって超都合が良いルールが出てきたりして「これ大丈夫?」ってなる)。さすが親父の説教

『コーラン』は何のためにあるのか

コーランやハディースなどにこんなに細かく日常の取り決めが書かれるのはなぜか。その答えが下記の文章に集約されていると思う。

まったくの話、マホメットの功績は計り知れない。確固たる一神教を樹立し、イスラム共同体のウンマを建設してアラビア半島に政治的秩序をもたらした。砂漠の民に倫理観を植えつけることにもおおいに貢献した。貧民救済の情熱と成果は目を見張るべき実績だろう。

第9話 君去りし後 より

マホメットに、強い世直しの使命感があったことは疑いの余地がないと思う。
マホメットが行ったことは、世を整えるために必要だと思われる当時の「課題」を的確に抽出し、それに対し厳密でしかも納得度の高い「回答」を用意したことだ。もちろん是正の目安になるのは当時の倫理観であり、男尊女卑をはじめとして現代から見れば不適合に見える部分もあるが、しかしそういったことはコーランが起こった時の“改善”に比べれば1000年以上の時が経って生じた瑣末な問題にすぎないようにすら見える(聖典も時代に応じたアップデートが必要という認識は現代において少なからず芽生えているように思う。解釈ではなく文章そのものを変えるのはとても難易度が高くはあるが)。
あまりに未開で無秩序で不条理だったジャーヒリーヤの世を整える指針を一代で作り、しかも一生涯の間にアラビア半島の多くの人にそれを定着させた。まさに“預言者”たるすさまじい功績である。

純粋な信仰には人の頭を垂れさせる荘厳さがある

言語は難しい。アラーはアラビア語で預言を下されたのだから、アラビア語で書かれ、読まれるもののみが本物のコーランであるという主張は頷ける。
著者の言葉を借りると、コーランは神の言葉であると同時に神の音楽でもあるのだ。

本書の最終章には、サウジアラビアを旅行した際に著者が目にした礼拝の光景が描かれる。

白い衣装がみんな高い展望台の上に集まっていた。かくて刻々と気配を変えていく日没の大自然の中で厳粛なサラートの一部始終を実見することとなった。
──やっぱり、凄い──
〜中略〜
みんなの動作がそろうか、そろわないか、そんなことは第一義ではあるまい。一人一人が神と向きあうのだ。その対峙の真剣さが、おのずとこちらにも伝わってくる。理屈を超えた信仰の強さだろうか。様式化された真剣さと言ったら、うがちすぎだろうか。

第10話 聖典の故里を訪ねて

長年受け継がれてきた慣習の中にしみついた純粋な祈り。文化や風土、その地に生きる人間の「あるがまま」が一致して生み出される、神と呼応する時空。無宗教である私には、おそらく今世では到底行き着けない場所だ。
神を信じ、純粋に祈るという行為には、言葉にできない何かがある。

私がその場に行きあったら、ただ黙すしかない。神の存在など平生信じていないのに、祈る人の中に神を感じて心揺さぶられるのだろう。

その瞬間が過ぎれば「私」は元に戻るだろうが、それでも刹那でも万人に何か同質のものを感じさせるその普遍性が、イスラム教が世界宗教の一つである所以なのかもしれない。

*   *   *

最後に「ああこれがカルチャーショックか」とけっこうビビッと感じた一文を。

日中も夜も祈りの時間が設けられていて、あちこちで礼拝が始まる。
〜中略〜
「よくこんなことで仕事ができますね」
集中力を欠くのではないかと心配したけれど、現地のガイド氏が涼しい顔でいわく、「それはちがいます。私たちはアラーに祈ることが生活の中で一番大切なことなんです。仕事はその次ですから」

第6章 神は紙に描けない

日本人で、無宗教の私にはまったく考えが及ばない思考。
そもそもイスラム教の思想は「全てアラーの定めのままに」という感を感じさせる。でも、すでに定められたものを、正しく生きるとは、どういうことなのだろう? この点は、自分の中でうまく折り合う想像がつかない。

こういう思いもつかない視点に出会えるのも、読書のいいところだ。


番外|悩んでたのかな?

気になってコーラン(中公クラシックス)を借りてきて、阿刀田さんも取り上げていた「33.部族連合の章」をパラパラ読んでいたんですけど。
気になりすぎる箇所が。。。

53
おお、信仰する者よ、許しなくして預言者の家に、料理のできあがるのを待たずに食べにいってはならない。もっとも、招待されていれば、はいってもかまわない。食べ終われば、解散することだ。閑談して長居してはならない。そうすることは預言者を苦しめるもの。預言者はおまえたちに恥じるが、神は真実を語ることを恥じたまわぬ。

ごめんここは笑ってしまいました。規定が細かいわwww
マホメットさん、空気読まない来客に悩んでたのか?!

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