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#33 ーうつ病みのうつ闇ー 自殺…なぜ誰にも打ち明けられないのか その2

忘れて欲しくないのは、自殺するほどのうつ状態では、正常な判断力…というか感覚を、すべてではないにしろ失っている。病気なのだ。

うつ病は、進行すれば自殺という『死に至る病』だということだ。うつの黒い霧に蝕(むしば)まれると“憂鬱”などという言葉では、とうてい言い表せない尋常(じんじょう)じゃないものに覆われて、自分自身が切り裂かれてしまう。

私がここに書いてきたような感じ方や感覚で、普通の人には理解し難いものがあるだろう。

私自身うつ病で倒れてから20年以上経っていて、15年以上は薬も飲んでいない状態にまで回復していたのに、今回初めて体験した感覚もあり、この病は目に見えないが、本当に死に至る病なのだと思い知らされる。

がんや心筋梗塞など、肉体的な病気で死んでも非難されないのに、なぜうつ病で死んでしまうことは、自分を殺したと非難されるのか…

心の病と言うが、脳に変化が起きる脳の病気…脳の働きに障害が起きて希死念慮に襲われる時、それは認知症の人や統合失調の人が、幻覚や幻聴を経験するのと同じようなものじゃないだろうか。

カタツムリが寄生虫のロイコクロリディウムに乗っ取られて、普通ならしないような、鳥に食べられやすい行動をするのと、似たようなものじゃないか。

私がうつの闇に飲み込まれ「死にたい(終わらせたい)」という状態の時、たいていの人が経験する、何か辛いことがあって、いっそ死んでしまいたいと思うような、どこかロマンチックなニュアンスを含んだものではない。

それはもっと冷たく非情で、陰惨(いんさん)なものだ。切実で息の詰まるような、激しいものだ。死んだ後に、天国というような良いところに行けるとか、楽になれるというような余裕などない…

『憂鬱』と言う言葉といい、『死にたい』と言う言葉といい、同じ言葉でもその中身が違う。そこがきっと、うつに対する誤解が生まれる原因の、一つなんだと思う。憂鬱≠憂鬱。死にたい≠死にたい…この調子なのだから、話が通じるはずもない。
 

つい最近、とても奇妙な感覚を経験した。

親しい人と話している時に、話の内容は世間話だったり近況報告なのだが『私が終わらせても、悲しまないで欲しいな。自分にできることがあったんじゃないかとか、どうして止められなかったのかとか、自分を責めないで欲しい。誰のせいでもないから苦しまないで。悲しまないで欲しいな…』と、心のどこかで心配しているという、不思議な感覚。

何と言うか…これは理屈ではなく…自分はもう終わらせるだろうと、心のどこかで予感がしている。

でも悲しいとか自分が可哀(かわい)そうだとか、そんな気持ちは全くない。考えるとか思うというのでなく、心の片隅(かたすみ)に、そんな気持ちがぽっかりと浮かんでくる。泡のように…

目の前の人と会話していて内容も理解しているが、何と言うか…自分だけ音の聴こえない世界にいるような感じがするのだ。

そして、その分厚いガラスで囲まれたような無音で真空のその世界で、自分が去った後の親しい人達のことを、心配しているという不思議な現実の感覚。 

普段通りに生活していて、今後のことも考えた行動をしたりするが、同時にそんな感覚が自分の中に存在している。とても不思議な感覚なのだ。

うつの大波によるあからさまな攻撃ではなく、こっそりと黒い霧が忍び寄って、気づかない形で侵食されているのかもしれない。ただただ苦しかっただけの闇の襲撃(しゅうげき)から、また一歩進んだ形なのだろうか。これも、うつ状態の脳が作り出したものなのだろうか。


前にも書いたが、私が自殺しても恐らくこれを見ない限りは、誰も私の状況はわからないだろう。自分が憎いとか、自分の闇だとか、うつの黒い霧だとか、話したところで大抵の人は理解できず、困惑されるだけだ。

最近もうつの黒い霧が私を訪れ、息が詰まりそうなあの感覚とともに、死に方が次々頭の中に浮かんできて、それに悩まされていた。今もその霧が消えないでいる。

ほんの数人の友人は、私がこんなものを書いたことを知っている。でも恐らく、まだ私がこの黒い霧につきまとわれ、こんなに大きな波をかぶっているとは思わないだろう。
 

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