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声をかけてみる


 鍼灸師をしている友人がいます。彼女は高校生の時に頭にバレーボールが当たり、それ以後段々と視力が弱って、十数年経った今では殆ど失明しています。
彼女とは幼馴染みですが、大人になってから会う事はなかったので偶然地元で再会した時にはどう接したらいいか戸惑いました。
 彼女がもっと話そうと言うので、私たちは食堂へ行きました。しばらくして彼女の旦那さんも合流しました。
 旦那さんは、右上にスープ、左手前にひじきの煮物、鉄板が熱いから気を付けてと彼女がスムーズに食事が出来るように気を配ります。盲導犬より役に立つわと彼女は笑い、旦那さんは膨らませた自分の頬へ彼女の手を引き寄せたり仲が良い夫婦です。
 彼女は食べている最中も、癇癪をおこし泣く赤ちゃんをあやし、カウンター越しに店員に話しかけ、私の知ってる頃より社交的で目の不自由さなど微塵も感じさせません。店の大将は裏メニューを出してくれるし、泣き止んだ赤ちゃんはご機嫌に笑っていました。

 私は目の不自由な人を見かけたら、どういう風に接したらいいか分からないと話しました。白杖を手に歩く人に気軽に声を掛けて迷惑ではないだろうか?何か助けようなどとは余計なお世話なのではないかと彼女に尋ねました。
 物腰も柔らかく、気持ちの優しい彼女は「普通に声を掛けてくれればいいよ」「必要なければ断るし、雑多な町の音や煩雑な駅では方向を見失う事も多いから助かるよ」と言い「聞いてくれてありがとう」と私の稚拙な質問に応えてくれました。
 金曜日の夕方、お酒も飲める食堂は満員で、私の「ゴメン」という行き先の無い謝罪は客の賑わいにかき消されました。

彼女を見ていると、とても気持ちが楽になり「目の不自由な人」とそうでない人という見えない壁を作っていたのは自分かも知れないと思いました。

 現代では身体を触れ合わせる人づきあいは少なくなっている。何か分からない事があっても人には聞かずグーグルで調べ、家族や仕事仲間とのコミュニケーションもSNSで済ます方が楽です。「ありがとう」や「ごめんね」もスマホでスタンプを送るだけでけです。人との関わりが希薄かもしれません。
でも、思いやりを持って話しかけたり、尋ねたりする心を大切にして行けば、そうはならないのではと今は、思っています。

 

 
#未来のためにできること


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