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一人より誰かと。ありったけのフィールドワーク論|Studies

マルセル・グリオールの『水の神 ドゴン族の神話的世界』(坂井信三・竹沢尚一郎訳、1981年、せりか書房)は、1946年のドゴンでの最後の33日間のフィールドワークの記録である。ほんとは民族誌紹介のQuizシリーズとしてとりあげたかったが、再読了に思いのほか時間を要しているため、フィールドワークの手法に題材を絞って記事にする。


オゴテメリとの対話

ドゴン族(人)は、マリ共和国に居住する西アフリカの民族集団であり、主にバンディアガラ断崖地域に住んでいる。彼らは独自の言語であるドゴン語を話し、農耕や家畜飼育を主な生業としている。ドゴン族は独自の宗教や信仰体系を持ち、特に宇宙論や神話が有名である。彼らの信仰にはアニミズム的な要素が含まれ、自然現象や祖先崇拝などが重要な役割を果たしている。また、ドゴン族は彫刻やマスクなどの伝統的な工芸品で知られており、これらの作品は彼らの宗教的・精神的な信念や価値観を表現するために制作されている。

本書はオゴテメリという盲目の老人の知識の聞き書きで、その点では以前に取り上げた『トゥハーミ』に似ている。彼はドゴン族の宗教的・精神的な指導者の一人とされ、伝説や宇宙論、神話などの重要な教義や知識を伝える役割を果たしている。彼との対話を日を追って記述しており、これによって一般読者に民族誌調査の実際を紹介し、知の成立をドラマ仕立てで提示している。

グリオールのフィールドワーク手法

グリオールは、現地の視点と観察者の視点の違いをあまり重視せず、社会的事実を客観的なものとして捉える。フィールドワークを単なる虚構とせず、社会の一員として真の知識を得る過程だと考えている。オゴテメリとの対話は、現地の秘密の知識を授かるイニシエーション的な要素として描写され、個々人の経験の部分性と全体性の関係が議論されている。

そもそもグリオールはフランス民族学の伝統を踏襲している。その時代、マリノフスキーに代表されるイギリス人類学が個人でのフィールドワークを重視したのに対し、フランス民族学は集団(調査隊)でのフィールドワークに立脚していた。その根拠は、現地の人々は真実を隠すものであり、複数の観察者による共同作業で事実を選り分ける作業が必要だという信念だった。

また、グリオールの調査隊は博物館の展示品を収集することを目的としていたため、全体性よりも個別の地域や文化に焦点を当てがちだった。全体性の構成要素は、総合化を志したマリノフスキーとは異なり、緩やかな結びつき以上のものを示す必要はないと考えていた。

グリオールへの批判

チームによる観察の弊害として、儀式の進行をかき乱し、観察者の存在が出来事に影響を与える可能性があることをジェームズ・クリフォードは示唆している。グリオールは複雑な儀礼は単独の観察者が把握できないと考えるが、実は現地のドゴン族の誰もが全体を見ることはできないと反論するのである。

このようにグリオールは、社会的事実は誰が見てもひとつの同じ事実だと仮定し、複数の観察者が協働したほうが事実全体を把握しやすいという立場である。事実は観察する者の視点に依存し、それが存在そのものにも影響を与えるという双方向性を無視する傾向が強い。つまり、現地人の視点と観察者の視点の本質的な違いを認識しないことが、グリオールの(というより彼の時代の)特徴だと言える。

また、オゴテメリとの対話は一種のイニシエーションであり、秘儀的な知識が伝授される物語構造はロマン主義に偏りすぎではないかとも指摘されている。

家族によるフィールドワーク

マリノフスキーのような孤独な観察者的立ち位置か、グリオールのような集団での特権的立ち位置かの中間形態として、家族によるフィールドワークがある。私がだいぶ前に書き留めたメモを紹介しよう。


近代化と人類学の歴史の積み重ねによって、観察者の異人性というものは次第に失われつつある。私たちは一人でフィールドワークをし異文化を体験することが人類学の通過儀礼であるかのように教えられてきたが、そこから武勇伝的要素を取り除いて調査の有効性を考えるなら、どれだけの必然が残るだろうか? 世界中の様々な民族の奇行、珍しい習慣、不思議な知識についての事前の情報と類推が、私たちを体験的な驚きから遠ざけている。民族誌はすでに書かれすぎており、私たちは先行研究という財を浪費することに威信を賭けるばかりである。

フィールドで驚かない世代にとって、カルチャーショックはもはや出会うのではなく、作り出す時代なのだ。そのためには、観察者と現地の人々との間にもっと複雑な文化の相互交渉が必要である。例えば、コミュニティ対コミュニティ、文化対文化の構図をフィールドに持ち込む。それは一人よりも複数の調査のほうがいい。個人が文化でないとはいわないが、家族のほうが信頼され交際の幅が広がり、性差や世代間の役割の理解にもチャンネルが開かれる。新しい人類学への様々な模索が試みられている今日、この家族での滞在という現地への関与のあり方も再評価されるべきだと思う。


いま付け加えるとするならば、家族はお互いに助け合うことができるため、精神的な安定性や作業効率が向上する可能性があること、トラブルに際しての意思決定や行動の柔軟性が高まることなどが考えられる。やっぱりストレスは一人より複数のほうが乗り越えやすいよ。

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