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旧聞#12 文化を裁く|Essay

遅ればせながら、バルガス=リョサの『世界終末戦争』を読んだ。そして遅ればせながら、オウム事件について考えた。

この小説は前世紀のブラジルで起こったカヌードスの反乱が題材にある。奥地で原始キリスト教に帰依して暮らす異端者の集団と、その影響力の拡大を恐れた当時のブラジル政府との間の戦いが描かれている。狂信徒たちは政府側の攻撃に応戦したにすぎないが、自分たちの帝国樹立のために他者の存在を武力で否定した点はオウムの犯罪と共通する。

オウム事件は文化人類学にとって内省の契機だったと僕は思う。人類学には文化相対主義という考え方がある。文化にはそれぞれの価値体系があり、どれがすぐれているとか劣っているとかではない。等しい価値をもつから、それぞれが尊重されなくてはならない、というものだ。今の倫理基準では当たり前のようだが、「野蛮な」とか「土俗の」という形容が文化研究においても遠慮なく使われていた時代があった。

文化相対主義は世界の辺境文化に自尊心と発言権を与えた。しかし難問もある。これに照らせば、部族のステータスを高める首狩りや人口維持のための嬰児殺しなどの慣習も正しいことになる。他の文化の住人はこれに口出しできない。けれど、頭ではそれを認めながらも、その状況に直面した人類学者は相当のジレンマを抱えてきたことも事実である。

そこでオウム真理教である。事件に前後して、この教団は独自の社会組織と宗教文化を築きつつあった。しかも信者はサリンによる殺りく行為を、終末思想にのっとった正しいものだと信じていた。もちろん、新興宗教の教団と、オリジナルな文化と歴史をもつ民族集団とを同列に論じることは的はずれだろう。殺害の対象が違う価値観をもつ人々であることも、人類学の事例から逸脱している。

にもかかわらず、文化相対主義はこの事件を裁くことができない。拡大解釈をもし受け入れるなら、人類学は殺人を文化制度とする「オウム族」の弁護席に座ることにさえなりかねないのだから。

絶対の価値基準をもたないことはリベラルな思考を可能にするが、落とし穴もそこにはある。国際化が抱える問題もそこらあたりにあるのではないかとこの頃は思う。


このシリーズは1997年に琉球新報紙に掲載されたものでした。これで終了ですが、ちょっとだけ追記します。

人類学の文化相対主義は、自文化中心主義に対抗して、少数民族など声が届きにくい虐げられる側に立った善意の見方だったと私は考えていますが、近年ではマルクス・ガブリエルのように、本質をみなければ道徳や倫理は進歩しないと相対主義を批判する風潮が強まっています。プーチンが「ロシアには西欧とは異なる価値観がある」という理由で、ウクライナ侵攻を正当化するこの時代を生きていると、確かに相対主義の不備やほころびを強く感じます。ただ、文化相対主義にある「全ての文化は優劣で比べるものではなく対等である」という価値観まで棄却するとしたら、「歴史は繰り返される」のようなとても危険な兆候だと思います。

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