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映画『鹿の王』の世界観とマルチスピーシーズ |Critique

アニメ映画『鹿の王 ユナと約束の旅』(上橋菜穂子原作、安藤雅司・宮地昌幸監督、2021年)のレビューです。


最初に言っときますけれど、私はマルチスピーシーズに詳しいわけではありません。文化人類学をかじった者としてか、それとも自然にシンパシーを感じながら生きる者としてか、マルチスピーシーズに興味を持っていて、何冊か本を読んだことがあります(読了を断念したことも多いのですが・・・)。その程度の与太話なので、タイトルにつられて読んでいる方はどうかお心置きください。

あらすじ

物語の背景はこんな感じです。
10年前、ツオル帝国がアカファ王国に攻め込んだが、黒狼熱(ミツツァル)という謎の病の流行により聖地(火馬の郷)の手前で撤退する。属国になったアカファ国王は、ミツツァルを再び流行らせてツオル帝国の弱体化を狙おうとしている。

これに次の話がアドオンされます。
先の征服戦争でアカファ側の精鋭部隊として戦ったヴァンが、ミツツァルを媒介する山犬の襲撃を機に強制労働から抜け出す。ヴァンが抗体を持つことに気づいた医師と、治療法がみつかると困るアカファ国王の斥候がヴァンを追う。

さらに物語は転回します。
火馬の郷のオーファン一味がヴァンが連れた女の子ユナを攫う。ヴァンはそれを追い、火馬の郷に到達。同じ頃、ツオル皇太子は「玉眼来訪」という必殺の兵法?で火馬の郷を攻める。オーファンは、山犬を率いて飛鹿(ピュイカ)の繁殖地をまもる王になれとヴァンに迫る。

なぜなぜ分析

この物語の趣意は、ふたつのなぜ?にあります(以下、ネタバレ注意です)。

ひとつめの「なぜ」。アカファ人がミツツァルにかからないのはなぜ?
その答えがピュイカが好んで食べるアッシビという草で、ミツツァルの特効薬ということが物語終盤にわかります。ピュイカの乳を飲む習慣を持つアカファ人は感染しないというわけです。山犬がこのアッシビを嫌っている描写があり、ミツツァルとの対置だと読めます。

ふたつめの「なぜ」はより重要です。ヴァンもユナも山犬に噛まれて不思議な力を得るのはなぜ?
ミツツァルの感染経路は、①人から人へ飛沫or接触感染する(アカファ人は例外)、②山犬に噛まれて感染する(アカファ人も罹患)と設定されているのだと推測します。にもかかわらずヴァンは発病しないので、抗体獲得が期待されたのでしょう。

ヴァンの不思議な力は、強制労働から脱走するとき、猪の突進からユナをかばうとき、奪われたユナを乗せた山犬たちと対峙したときに発動しました。戦っている相手の武器を破砕することもできます。ユナのほうはというと、ツオル人が山犬に襲われたときに赤い糸で山犬をコントロールしたり、アッシビの葉やヴァンの血に光る抗体らしきものが見えたりなどの力です。これらはどうやら体内に取り込まれた山犬の力のようです。

以下ではヴァンの力にフォーカスしましょう。

村に山犬が現れユナを連れ去ったあと、ヴァンは不思議な声を聞きます。「犬の王」ケノイの声です。ケノイは言います。「感じないか。風の音、草や花、鳥、獣、おまえは今あらゆる命を感じ、つながっている。それは裏返りだ。そなたに備わった才覚だ」と。

キーワードは「裏返り」です。しかし、映画ではこれ以上言及されていません。ググってみると、原作からの引用でしょうか、「心と身体が分離し、”魂の自分”と”身体の自分”が逆になり、言葉や人らしい思いが消え、あらゆる生命とつながっているような状態」と出てきました。

マルチスピーシーズ解題

これです。これこそマルチスピーシーズです。いくつもある定義の試みのなかから、次を引用してみましょう。

「マルチスピーシーズ」とは、人間だけに限定して物事を考えるのではなく、人間と人間以外の存在(動植物、精霊、機械、土地など)が絡まり合って世界をつくり上げていることに注目する考え方です。・・・ヒトという単一種から議論を始めるのではなく、多種が絡まり合うなかで「人間」が生まれるという発想だとも言い換えることができます。

http://www.ibunsha.co.jp/contents/multispecies01/の近藤祉秋発言より

ヴァンはピュイカを馬以上に乗りこなし、ピュイカを手懐ける飼育方法に熟知しているようです。居候先の長老との会話のなかで、群れをまもる行動様式がビルトインされた「鹿の王」とも形容されています。つまり、土台としてピュイカと共生する存在であったところに、山犬に噛まれ病原菌あるいはウイルスを取り込んで意識が変容し、beyond the human――人間なるものを超えた存在になったと理解することができます。

また、己を後継する「犬の王」になれと無意識下でヴァンに干渉してきたケノイも、樹木と一体化し、植物を操る能力を持っているように描かれています。あるいはケノイは人間という形ではそもそも実在していなかったのかもしれません。生き物すべてがつながりあったマルチスピーシーズの具現した姿として描きたかったのではないでしょうか。

ラストで、成長したユナの前にピュイカの姿のヴァンが現れます。それがヴァンだと知るユナは笑顔で応じます。ヴァンがヒトとして実在しないことは、決して悲劇ではないのです(私のなかでこの場面は、ライアル・ワトソンの『未知の贈り物』のラストと同期しました)。

* * *

原作者の上橋菜穂子さんは文化人類学の研究者でもあるようですが、『鹿の王』を書き上げるときにマルチスピーシーズを意識したのでしょうか? 答えは原作にあり、ですね。映画版は登場人物もストーリーもかなり絞られているみたいなので(それがとっつきやすくてよかったです)、いつか必ず読んでみたいと思います。

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