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蛙の独唱 《事件編》

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 江久学二郎が見ている写真は、海を渡る巨人の足のような橋を、バターのような黄色の特急が走っているものである。

 この写真の撮影者の友人が、数ヶ月前、自慢気に渡してきたことを江久は今でも覚えている。江久が普段から接している写真に写っているのは、もっぱら凄惨な事件現場か、物騒な証拠のどちらかなので、こういった写真を江久が自分で撮ったことは殆ど無い。しかし、江久がこの写真を保管しているのには、他にも理由があった。

 橋を注目して見ると、そこを走っている電車は背景になってしまう。一方、電車に焦点を合わせると、何処を走っているのかは余りに気にならなくなる。

 〈つまり、物事は何を中心と見るかで大きく変わってくるのだ…〉と、悦に入っていた江久の意識は、来訪者を知らせるベルの音で仕事モードに切り替えられた。

 江久探偵事務所に入ってきたのは、縞柄のセーターを着た四十代程に見える女性と、暖かそうなジャンバーを着た青年である。

 一月という時期に見合った恰好だが、僅かに震えているのは寒さだけが原因ではあるまい、と江久は結論付けて、

「ようこそおいでくださいました、私への依頼ということで宜しいでしょうか?」

 女性が頷いたので、

「では、そちらのソファーにお座り下さい。その前に何か飲み物を持ってきましょうか?珈琲でよければ直ぐに出来ますが…」

「はい、お願いします」と、青年が掻き消えそうな声で答えた。

 素早く珈琲を三人分淹れて、江久は二人の向かい合って腰を下ろした。そして珈琲を一口飲むと、

「では、早速依頼についてお伺いしましょう」

と、依頼人達を見つめながら切り出した。

 女性の方は宇賀凜、青年は宇賀礼一と名乗った。親子であり、今は二人で暮らしているという。そして、依頼内容を聞いた江久は、僅かに眉をひそめた。

「主人の死について調べて欲しいんです」

 凜は、何かを決意したような力強い眼で江久を見てきた、江久は気圧されることなく、

「詳しく伺いましょう」と答えた。

 凜の夫であり、礼一の父であった宇賀恭介は丁度一年前、事故によって命を落としたらしい。恭介が赤信号の横断歩道を渡っており、そこを車に撥ねられたというものだ。しかし、事故の内容を話していた凜が、突如泣き出した。

「お辛いのは分かります、死というのは本当に突然やってくるもので…」

「いえ、それだけが原因じゃないんです」と、礼一が凜をさすりながら言ってきた。

「どういうことでしょうか?」

「父は轢かれる直前に女性を襲っていたらしいんです、そしてそれを取り押さえた人から逃げ出した際に轢かれたと…」

「しかし…貴方達はそれを信じていない訳ですね?」

「当たり前ですっ!」

 凜が顔をバッと上げて涙声で訴え始めた。

「主人は…そんなことをする人じゃありません、普段から私達に気を配ってくれて礼一の面倒もよく見てくれていました。そそっかしい所はあったけれど…でも決して女性を襲う人じゃありませんっ!」

 再び俯いて泣き出した凜に代わって礼一が、

「探偵さん、一般的に見れば俺達は被害者遺族の筈ですよね?だけど慰めの言葉なんて一つも来なかった。それどころか『天罰』だなんて言われる始末で…元気だった母は事ある度に泣くようになってしまいました」

 礼一は大きく息を吸って、

「昨日もそうでした、泣いていた母を見て俺は何か出来ないかと思ったんです。事故から一年経ってもこんな状態じゃいつか絶対に壊れてしまう。だから、ここに…貴方に会いに来たんです」

 礼一は、堪えていた想いを出し尽くしたのか大きく息を吐いた。江久は珈琲を飲んでから、

「事情は理解しました、しかし予め言っておきますがお二人が望むような結論に至ると保障は出来ません。それでも宜しいでしょうか?」

「はい、もし本当に父がそういったことをしたのなら…それを受け入れようと思います」

「結構、依頼を受諾します。報告の為に連絡先を教えて頂いて宜しいでしょうか?」

 電話番号を言い終わると、宇賀親子は事務所を出ていった。礼一がドアの前で一礼してきたのが印象的だった。

 江久は眼を閉じて立ち上がると、

「真実は人を救う訳ではない、寧ろ人を傷つけることだってある…」

 と、事務所内を歩きながら呟き始めた。

〈知りたくなんてなかった…そう言われたことは少なくない。しかし、それでも真実求める人が…私に依頼してくれる人がいるならば…〉 

 江久は眼を開いた。

「突き止めてやろうじゃないか!」

 江久は、自分のスーツの襟を正した。

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 電車で一時間程揺られた後、江久は事故があった〇〇市の駅に到着した。改札を抜けると、駅前では襷を掛けた男性が声高に演説をしている。

 〈どうやら、この市ではこの時期に市議会議員選挙を行うらしい…〉と考えながら、江久は喧騒を避けるように、タクシーに乗り込んだ。

 目的地に着くまで、江久は事故についての詳細を確認すべく、スマートフォンを開いた。

 事故は昨年の一月、日曜日の午前十時頃に発生した。死亡したのは宇賀恭介で当時四十五歳、乗用車に撥ねられた後、病院に運ばれたがそこで死亡が確認されたようである。

 そして、問題は彼が轢かれた経緯だ。恭介はその横断歩道の前で、女子大生に掴みかかっていたらしい。それを目撃した通行人の男性と揉み合いになったが、恭介は隙を付いて横断歩道を渡って逃げようとした。しかし、信号は赤信号であり、やってきた車に撥ねられた。

 江久が話を聞こうとしている人物は女子大生、通行人、そして運転手である。まず江久は、恭介が襲ったらしい阿久津心音が住むマンションに向かっていた。

 タクシーに自分を待つように頼み、江久はマンションの階段を上がっていった。連絡先は宇賀親子に教えて貰い、アポイントメントは出発前に取っていた。

 阿久津が住んでいる部屋のインターホンを鳴らすと、恐る恐るといった様子で陰気そうなショートカットの女性がドアチェーン越しに顔を覗かせた。

「阿久津心音さんですね?先ほど電話した探偵の江久です」

「あぁ…さっきの」

 阿久津は訝しげに江久を見つつ、ドアチェーンを外した。

「貴方にとっては思い出したくない事かもしれませんね、それは承知していますがこれも仕事なので…お話を聞かせて貰っても宜しいですか?」 

「いいですけど…手短にお願いしますよ」

「ご協力感謝します、では貴方の事件の起きた日の行動について教えて下さい」

「あの日は休みだったので、少し出掛ける用事があったんです。それで歩いてて、あの横断歩道を渡ろうとしたら、スーツを着た男の人が道を塞ぐように目の前に現れたんです」

「失礼、事故が起きる前にその男性に会ったことは?」

「いえ、知らない人でした」

「因みに宇賀…その男性はどちらからやって来ました?」

「私から見て左側でした」

「結構、では続けて下さい」

「何だか凄く慌てているみたいだったけど、青信号だったので私はその人を避けて進もうとしました。だけどその人は私の肩を掴んで、何だか叫んでいたみたいでした」

「叫んでいた…内容については覚えていますか?」

「実は…よく分からないんです」

「と、言いますと?」

 阿久津は眉間を指で押しながら、

「私はその時、イヤホンで音楽を聞きながら歩いてました。だからその男性が何て言っているのかよく聞こえなかったんです」

「成程…それからどうなりました?」

「何とか振り払おうとしていたら、襲いかかってきた男とは反対側からやってきた男の人が、私を助けようとしてくれました。そうして、男性二人が掴み合いになっていたんですが、私に襲いかかって来た方が逃げ出したんです。そして…」

 阿久津がギュッと眼を瞑るのを見て江久は、

「お話は分かりました、今の所はこれで大丈夫です」

「そうですか…あの、探偵さん」

「何でしょうか?」

「探偵さんは誰かに頼まれて調べている訳ですよね?」

「ええ、勿論」

「わざわざご苦労さまです、無駄だと思わないんですか?」

 阿久津の皮肉のような言葉に対して江久は、

「悲しいことに…無駄かどうかは調べないと分からないんです。そういう仕事なんですよ」

 と、実に残念そうに聞こえるように答えた。

          3

 次に江久が向かったのは、小野谷雄哉が住むアパートである。事故の日の彼は趣味のランニングの最中に、恭介と阿久津に遭遇したらしい。

 江久が「事故について調べている」と電話越しに言った際、『おっ、一年経ったんで改めて記事にでもするんですか!?』と、嬉々とした声が聴こえてきた。どうやら彼は、取り調べだけでなく取材も受けたらしい。

〈暴漢から、女性を助けた通りすがりのヒーロー…ってところかねぇ〉と、当時の記事のタイトルを想像しつつ、江久の乗るタクシーは小野谷のアパートに到着した。

【小野谷】というネームプレートが貼られているドアをノックすると、「はーい」と、元気な声が聴こえてドアが勢いよく開いた。

 身長は百八十センチ程あるだろうか、小野谷はガッシリとした体格の男であった。髪は短く刈り込んでおり、垂れ気味の眼には好奇心が浮かんでいる。

「あっ、もしかして電話してきた…」

「ええ、探偵の江久です。電話で申し上げた通り、一年前の事故についてお伺いしたいのですが…」

「はい、大丈夫ですよ!」と、先程の阿久津とは打って変わって、かなり乗り気である小野谷を観察しながら江久は問い始めた。

「では、貴方が当時経験したことを出来る限り正確に話して下さい」

「僕はランニングの最中に、スーツを着た男がパーカーを着た人の肩を掴んでいたのが見えたんです。えぇ、勿論あの横断歩道の前ですよ。明らかにパーカーの人が嫌がっているように見えたので、僕は急いで走っていってスーツの男を引き離したんです」

「その後は揉み合いになった…?」

「そうなりますかね、僕が掴みかかった時にそいつは『違う、違うんだ。話を聴いてくれ』って弁解していましたけど僕は無視して取り押さえようとしました。だけど振りはらわれて…横断歩道を渡っていった男に『赤信号だぞっ!』とも叫んだんですけど…」

「轢かれてしまった、という訳ですか」

 江久は咳払いをすると、

「貴方は事故が起きる前から、轢かれた男性と助けた女性と面識がありましたか?」

「いや、どちらとも無かったです。パーカーの人の方に至っては確かフードを被っていて、男が轢かれた後に初めて女の子だって判ったんです」

「事故当日に、事故以外で何か変わったことはありましたか?」

「特に思いつかないなぁ…」

「そうですか、ご協力ありがとうございました」

「あれっ、もう終わりなんですか?」

「はい、もう大丈夫です」

 すると小野谷は何やら考え込むように腕を組み、先程より少し低い声で、

「探偵さんは…このシンプルな事故に何かあるって思っているんですか?」

「現在はまだ何とも言えませんね、まぁ自分が納得するまで調べてみるつもりです」

「そうですか…余り大きな声では言えないんですけど、僕はあの事故のおかげで名を上げることが出来ました。女の子を助けたヒーローとしてね」

「それは何とも喜ばしいことです」

「そうでしょ?だから僕の立場も考えて下さいよ。もしあの事故に何かあるって言われたら疑われるのは轢かれた人と揉み合いになってる僕なんですから」

「その点はご安心を。依頼人の意向により、私が当時の警察と同じ判断に至った場合公表することは一切ありません」

「ならいいんですけど…にしても、何で今更調べようなんて思ったんですかね?」

「一応聞きましたが、守秘義務の為に話せませんね」

「真面目だなぁ、それじゃあ頑張って下さい」と言うと、小野谷はドアをバタンと閉めた。

 江久は、相変わらず待たせているタクシーに向かう途中にポツリと呟いた。

「依頼人は確かめたいんですよ、彼が悪役《ヒール》で無かったとね」

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「正直…今でも信じられないんです。自分が突然犯罪者になるなんてね」

 とあるアパートの一室、古ぼけたちゃぶ台に江久と井室長治は向かい合っていた。

 井室は猫背で床に胡座をかいていた。頬骨が出ており、無精髭が生え、目に隈が出来ている。その眼からは生気のようなものが感じられない、というのが江久の感想だった。

「突然そいつは飛び出して来たんです。俺は眼を閉じてブレーキを踏みました。そして…車を運転していて聴いたことのない音が聴こえてきたんです」

「そこで逃げようとしなかったことは賢明でしたね」

「車を降りて、俺が撥ねた人の元に駆け寄りました。でも…『駄目だな』って何となく判ったんです。何と言うか…それは人の形をした何か別の物にしか見えなかったんです」

 井室は鼻を啜ると、

「それからはあっという間でした、歩行者に過失があったことは認められましたが、それでも俺は人を死なせてしまった。家族には出ていかれ、家も売りました。仕事もクビになって…唯一の救いは世間は俺に同情してくれてるってことです」

 そう言い終わると、井室は江久をじろりと見てきた。

「探偵さん、貴方はその同情すらも俺から奪うつもりですか?奴が飛び出したのは悪くないって言って、俺を絶望させたいんですかっ」

「場合によっては…そうなるかもしれませんね」

「そうかい、ならとっとと帰ってくれ。俺は疲れてるんだ、精々俺をこき下ろすといいさ!」

 江久はゆっくりと立ち上がり、玄関に向かった。そしてドアの前で振り返り、

「これは私の予想ですが…何か隠されていたものがあったとしても、貴方の立場は変わらないと思います」

「あ?」

「貴方はただ…致命的に運が悪かった。運が無かったから、人を撥ねてしまった。言わば無理やり巻き込まれたという訳です」

「おい、止めろっ」

「私には貴方を救うことは出来ません、真相を伝えたとしても貴方にとってはきっと無意味だ」

「止めろって言ってんだ!」

 井室はちゃぶ台をドンと叩いた、ちゃぶ台が僅かに跳ね上がったように見えた。

「私には真相を伝えることで、助けられるかもしれない人がいる、だからここに来たんです。依頼人の救いの為に…」

 江久は少し俯き、再び井室の方に視線を向けた。

「だが…貴方を救えるのはっ」

「【俺自身しかいない】ってか?」

 井室は嘲るように笑うと、

「んなことは分かってるんだよ、でもどうしようもないのさ。前を向こうとしても、アイツを轢いた時の光景が必ず浮かび上がってくるんだ…そしていつも同じ結論になる、俺には前を向く資格なんて無いってね」

 井室は溜息をついた。そして江久を睨みながら、

「探偵さん、アンタだったらどうする?俺とは違ってアンタは前を向けるか?」

「それは答えかねます、私が言った所でどうしようもないでしょう?」

「そうだよ…慰めてくれなくていいんだ。俺はずっとこのままだ…」

 顔を埋めた井室を残して、江久は外に出た。

「宇賀恭介…一人の人間を壊してまで、貴方は何をしたかったんだ?」

 江久の呟きに、返事は無かった。

          5

 江久は事故が起きた横断歩道の前に佇んでいた。冬の為か、時刻は午後四時程だったが陽はまもなく沈もうとしていた。

 横断歩道の長さは、六メートル程でもう少し伸びたなら中央分離帯が出来ると思わせる程には長かった。LEDがぼんやりと光る歩行者専用信号機は、長くも短くもない時間で色を切り替えている。車はそこそこ通っており、恭介が轢かれたのは横断歩道を半分渡った所のようである。

 江久は顎に手を当てて考え込んでいたが、正直な所を言えば、手詰まりだという感覚があった。

 一年前に起きた事故の為、証拠が残っているとは考えにくい。これ以上事故についての目撃者の証言も望めない。しかし依然として、【宇賀恭介は何故、阿久津心音に襲いかかったのか?】という、謎が残っている。

〈果たして何かを見落としているのか…?それとも…〉と、江久は横断歩道の前をうろうろしていたが突然、

「ヘーックション!」

 と、くしゃみをして身体を震わせると一つの結論に至った。

「よし、今日はもう帰ろうか。明日改めて出直すとしよう」

 そう言って、左側へ歩き始めた。帰り道であると同時に、恭介が最後に歩いた道でもあるのでよく観察しておこうと思ったからである。

 そして、横断歩道が見えなくなる程度に歩いた江久の視界にある物が映った。

 江久は、最初は何の問題も無いと思ったが、直ぐに立ち止まって観察を始めた。

 それは、電柱の前に置かれた花束だった。色とりどりの花がそれぞれ主張しつつも、それでもまとまりを感じさせるような不思議な花束だった。

 江久はじっと花束を見ていたが、思わず「あっ!」と叫んでいた。そして、丁度走ってきたタクシーに向かって思いきり手を挙げ、乗り込むやいなや、

「最寄りの図書館へ行ってくれ!」

 と、運転手が訝しむ程にハイテンションで言った。

 図書館に到着した江久は、過去にこの市で起きた事故の資料を手に取っていた。そして、ある一つのページを見つけると、

「どうやら…一つの可能性を掲示出来そうだな」

 と、誰にも聞き取れない程に小さな声で呟いた。

      《読者への挑戦状》

 江久学二郎は、一年前に起きた事故について一つの結論を出したようだ。聡明なる読者の皆様は如何だろうか?

 今回も僭越ながら、筆者より一つの問いを掲示させて頂く。


Q,江久が掲示しようとしている可能性とは何か?


 物語は《解決編》へと続く、どうか最後までお付き合い頂ければと思う。

                ジンハン

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