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橘玲『世界はなぜ地獄になるのか』【基礎教養部】

『世界はなぜ地獄になるのか』は、同じコミュニティのメンバーであるchiffon cakeさんに紹介していただいた本である。chiffon cakeさんによる書評およびNote記事は以下を参照:

本書および前回のNote記事で扱った『君は君の人生の主役になれ』では、「差別」について書かれている部分が多くあったので、今回のNote記事では、「差別」について考えていることについて述べようと思う。

私は、「差別」となる原因となっている事柄(例えば、肌が黒いこと、性的少数者であることなど)は単純にその人の”特徴”の1つにすぎないと思っている。つまり、それぞれの人はそれぞれの特徴(個性とも言える)をいくつも持っているが、その中の特徴の1つに「差別」の対象となる特徴があるとその人は差別されることになってしまう。では、「差別」の対象となる”特徴”とはどのようなものだろうか?

考えやすくするために、マイノリティに対する差別について限定して考えよう。マイノリティを、仮に、この世界の10%以下しか持っていない特徴を持つ人であると定義する。すると、卵が嫌いな人や出目金を飼っている人たちもおそらくマイノリティであるといえるが、その人たちは別に差別の対象とはならない。だが、性的マイノリティや障がいを持つ人、アイヌなどの少数民族といった人たちは差別の対象になってしまう。その違いは何だろうか?

こういう特徴であれば必ず差別の対象となり、逆に差別の対象となるのはこういう特徴のものである、といった必要十分の答えは得られないと思うが、こういう条件のときに差別の対象となりやすいという傾向がある(また、その逆)、といったことはいくつかあげられると思う。例えば、見た目がマジョリティの人と異なること、という条件がすぐに思いつく。確かに、卵が嫌いな人や出目金を飼っている人は見た目がマジョリティの人間と異なるということはないだろう。一方、性的マイノリティや障がいを持つ人の中には見た目がマジョリティの人間と異なる人も多くいる。

「左利きの人」も上の定義から言うとマイノリティであろう。しかし、左利きの人は差別の対象とはなっていない、と思っていたが、今は左利きの差別はあまり聞かないものの、昔は左利きの人に対する差別は行われていたようである。「子供の時に左利きから右利きに直された」と言っている人をたまに目にするのはその名残りだろうか。現在、左利きの人たちが差別されない原因の1つとしては、世の中が左利きの人に理解がある、偏見がない社会になっている(なりつつある?)ことがあげられるだろう。第一、身の回りで左利きの人に対して差別的発言をする人は全くいないし、左利きの人用の物がたくさん売られていている。左利きの人にとってはまだまだ苦労していることもあるらしいが、現在では左利きの人たちに偏見がない社会であり、特に差別の対象とはなっていないと思う(私の知らないところで差別が起こっている可能性はあるが)。

このように、あるマイノリティに対して(上部だけでなく真に)理解がある、偏見がない社会かどうかは1つの重要なファクターであろう。実際、上で挙げた差別の対象となるかならないかについてはこのファクターで大体分類できていると思われる。理解がない、偏見があるからこそ差別が起こるので、これは当たり前と言えば当たり前な気もするが。

私は、以前から、「差別はしてはいけませんよ」ということを伝える人権教育に違和感があった。なぜなら、「差別はしてはいけませんよ」と言っている時点で、そのことを差別と認めているわけであり、ということは実は心の中では少なからず偏見を持ち差別しているということになるからである。本当に何も偏見がない人は、「差別」というワードは出てこないはずである。

しかし、『君は君の人生の主役になれ』に書かれていた通り、我々の価値判断には差別というものがもともとこぶりついており、それを引き剥がすのは無理である。コロナ禍におけるワクチンを打つ打たないの問題などから容易にわかるように、我々は生来的に差別をする生き物なのである。

また、本書には人種にかかわらず個人を評価しよう、というカラーブラインド教育が逆効果になっているという事例が挙げられているが、このことから分かるように、なかなか人権教育というものはなかなか難しい。「差別はいけませんよ」というだけではただ上辺だけになってしまい、根本的に差別が減るとは思えないし、逆に「差別」という言葉をあらわに出さずに、「みんな平等」などのゆるい言葉でごまかしたとしても、根本的な解決にはならない。

なら、どうすればいいか。私は、当事者の話を実際に聞くことが重要だと考えている。我々人間は差別から逃れられない生き物である。だからこそ、「差別」に真正面から向き合うことが大切だと思う。マジョリティの人がただ単に「差別はいけません」と言うだけではそれは綺麗事に過ぎず、「差別」を心の中で実はしていることの責任から逃れているだけである。当事者の話を実際に聞くと、その「差別」に真正面から向き合わざるを得ない。この世の中はマジョリティ基準の世界なので、マジョリティの人の想像がつきにくいところでマイノリティの人が悩んでいるということが多々あると思うが、そういうことを「知る」ということだけでも重要だと思う。実際、中学校、高校でいくつかの差別を受けて苦しんでいる人の公演を聴いたのだが、そのどれも印象深いものであり、心の中で残り続けている。

『君は君の人生の主役になれ』にも書かれていたことであるが、我々は差別を普段から何気なくしているということを理解すること、複雑な世界を複雑なまま受け入れることが、差別と向き合う上で重要となると思う。この世から、また自分自身から「差別」をなくすことは不可能であるが、そのようなことを皆意識すれば、少なくともあらわに差別的発言をする人は減ると思うし、少しでも差別されている側の人間が過ごしやすい世界になると思う。

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