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エピソードを語る怖さ

人が物語る理由のひとつに「わかりやすさ」があると思います。概念的抽象的に説明されても意味を理解しにくいことが、物語を通して話させると頭にすっと入ってくる、そんな経験は誰しもあると思います。

スピーチでもプレゼンでも具体例が求められます。車を売るなら、スペックを語るのではなく、その車で楽しむストーリーを描いて、その車を買うとより良い未来が待っているように見せる必要があります。
お笑いでもエピソードトークが求められますよね。実体験からオチがつく話を探すのは大変だろうなとバラエティ番組を観て良く思います。

ただ、わかりやすいエピソードには注意が必要です。そのエピソードがどこまで普遍性があるかわからないからです。
具体的に語られる経験は現実にあったことでしょうから事実なのでしょう。だけど、それがどの程度の頻度で起きていることなのか見極める必要があります。
例えば、「昨日、歩いていたら電動キックボードとぶつかりそうになって危なかった」というエピソードをもとに、電動キックボードの規制や警告をするのが妥当なのか判断がつきません。どの程度の頻度で起きているのかわからないからです。
ひょっとしたら、その人だけに起きたことかもしれないし、歩いている人の不注意だったかもしれません。
語られたエピソードはわかりやすいかもしれませんが、レアケースの可能性もあるわけです。

「レアケースに引きずられるな」というのはビジネスで強調されることです(そのことを例えるワードがあったと思うのですが、思い出せません。「ピンクのサイに注意」だっけ?)。
理解わかりやすいエピソードトークだからこそ、そこから結論なり物事の真理を導くのは危ういことでもあります。
結論を導くには統計が必要になります。

小説は、ざっくりいうとエピソードの塊です。小説内で、あるエピソードが語られ、その物語を通じて、読者に作者の考えや思いを伝えるのが小説のひとつの役割です。
統計的に語る小説は、あまり見たことがありません。なんとか白書じゃないんだから。

物語が鮮烈で技巧的に語れると、フィクションだと分かっていても、それがどこかの世界で起こった現実のことのように思えてきます。
子に暴力を振るう親をリアルなタッチで描いた小説を読むと、そういう親が世の中には増えていて、親子関係に疑念を持つ人、自分も虐待する親になるかもと眉をひそめる人がいるかもしれません。

もちろん、フィクションをフィクションだと思える人が大多数だと思いますが、フィクションだと思っていても、物語を読んで感じた負の思いみたいなものがその人に沈澱して溜まっていく気がします。
でも、本当に暴力を振るう親が増えているかは統計をみないとわかりません(実際には親による虐待死の件数は昭和の時代より相当減少しています。統計に現れない数字があるという見方や虐待を相談件数が増えて、死亡事故に至る前に防止できるているという見方もありますが)。

小説の描写や物語は鮮烈で印象に残ります(小説家はそのように書いているわけですから)。
優れたフィクションを読むとあたかもそれが本当にあったかのように記憶に残る場合があります。意識的に「作り話」と分かっていても意識下に沈み、思考や感情に影響を与えることがあります。
小説を書くときは、与える印象に極度な偏りがないか、誤った考えを人に植え付けないか慎重になるようにしています。
それでも、他人の意識に影響を与えてしまうことがあります。「小説を読んでからずっと暗い気持ちを引きずっている」という感想をもらったことがあります(自分ではハッピーエンドのつもりで書いたのですが)。
小説を書いて披露するなら、他人に影響を与える可能性があることを自覚するべきだと思っています。

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