第三十二話 二日酔いの朝

後藤が朝の日課のようにアラームのスヌーズ機能とのネゴシェーションをいつもより1回少なく終わらせベッドから立ち上がった。

飲みすぎた次の朝はどうしても体がダルく、いつまでも布団の中にいるとダルさがそこにドンドンと貯め込めこまれてくるような気がするので、それならばいっそ起きたほうが良いと思うからだ。

まず洗面台へと向かい真冬の朝の冷水で顔を洗う。これだけでかなりスッキリした。そして歯を磨き、最後に洗口液を口に含みさっぱりさせる。
タオルで顔を拭いてから机の引き出しを開け、クールブーストを1本取りだした。隣にあったマルボロをしばし見つめてから引き出しを閉めた。
後藤はタバコに火をつけベランダで一服した。昨日はさすがに少し飲み過ぎた。ダメだ、喉が渇いてしょうがない。

後藤はタバコを消してキッチンへと向かった。
キッチンのドアを開けると珍しく岸のヤツはいなかった、昨日は岸のヤツもだいぶ酔っていたからな。

後藤が「何か曲をかけてくれ」と言うとスピーカーからはドージャキャットのセイ・ソーがゆっくりと流れ始めた。後藤は曲に合わせるように動き、お茶を淹れようと思いヤカンに水を入れて火にかけた。お湯が沸くと同時に岸のヤツがキッチンへ姿を現した。

右手で顔を覆い、だいぶ辛そうだ。

「大丈夫か?」

「ああ、でも飲みすぎたな。頭が・・・悪いがお茶でも淹れてくれないか?」

「丁度淹れようと思っていたところだよ。冷たい方がいいだろ?」

「ああ、頼む」

岸は頭に振動を響かせないようにしているのかゆっくりと慎重に椅子に付いた。だいぶ辛そうだ。
タンブラーを二つ取り出し、氷をたっぷりと入れ、急須に茶葉を入れお湯を注ぎ二杯分の冷薄茶が出来、一つを岸に渡す。
岸はそれを一気に半分ほど飲み干した。岸のヤツもだいぶ喉が渇いていたのだろう。

「お前は大丈夫なのか?」
岸のヤツはまるでキッチンの照明に目を焼かれているかのように薄目で後藤を見て聞いた。

「オレは、まあ酒弱いしな」

「はあ?タンカレーとロク空けてただろ?」

確かにそうだ。あの二本は、特にロクはいつでも好きな時に飲める酒じゃないからな。
岸は知らないだろうがあとベルーガも開けた。

薄く淹れた冷茶を岸が飲み干した。

「もう少し休んでいた方がいいんじゃないか?今日は少し遅めに出ようぜ」

「ああ、そうする。悪いな」
そう言って立ち上がろうとする岸に後藤が二杯目の冷茶を淹れてやった。

「助かる」

「朝飯はどうする?食えるか?」
先ほどよりやや濃い目に入れた冷茶を渡しながら後藤が聞くと、岸はうーん・・と唸りながら
「何かあっさりしたやつで頼むよ」と答えた。

「分かった、もう少し寝てろよ」

岸は軽く手を振ってキッチンから出て行った。

オレも二日酔いにならないってわけじゃあないんだが、あんな風に頭が痛くなるようなことはないな。飲み過ぎた次の日はダルくなるくらいだ。
それにタンカレーとロクは一人で飲み干したわけじゃないし、ベルーガなんてほとんどスラブコンビに飲まれちまったしな。
まあ朝飯を作るか。

しかしあっさりしたやつって言われてもな。
後藤は炊飯器の前に立ち、スイッチを押して目を瞑った。朝飯の時間だ。


岸くんは二日酔いか。
僕は二日酔いで頭が痛くなったりはしないから、あっさりとしたものって言われてもピンとこないんだけど、卵かけご飯はダメそうな気がするな。

後藤は、珍しく青々とした葉っぱが付いたまま売っていた大根を取り出しその葉を切り落とした。
それを細かく刻みフライパンを火にかけサラダオイルを垂らし煙が立ち上り始めるのを待って炒め始めた。

大根の葉っぱは食感が小松菜と似ているけど、風味は単なる雑草みたいにとても青臭くじっくり炒める必要がある。炒めすぎても小松菜みたいに食感が柔らかくなりすぎることはない。
中火で炒め続けて少し透明感が出てきたら日本酒と少々の味の素を入れてさらに炒める。
青臭さが無くなるまで炒めたら醤油を回しかけ胡椒をたっぷり加え、仕上げにゴマ油を数滴たらし、ゴマを散らしてサッと炒めたら出来上がり。

小鍋をコンロにかけたらお味噌汁の準備だ。とろろ昆布にしようと思ったけど二日酔いにお酢の酸味のある味噌汁はきつそうだから、ホウレンソウにしておこうかな。
炒め終わった大根の葉を二枚のお皿に分けたら今度はスキレットをコンロにかけて火力を5にしておく。

そこで炊飯ジャーが炊き上がりのアラームを鳴らした。
それ合図に後藤が天井に向かって「岸くんを呼んで」と声をかける。

スキレットをかけたコンロが「温度が高くなり過ぎだ」という警告音がピーッ鳴らしたら油をひいて、再び火力が5になったのを確認してから卵を二つ汁椀に割ってから慎重にスキレットに落とし蓋をする。
コンロの火力を2に落としてタイマーを二分にセットしておく。
これだけで白身がちゃんと固まって黄身はトロトロのちょうどいい目玉焼きが出来るよ。
蓋がしっかりとしていれば卵の白身が焼けた蒸気でちょうどいい具合に蒸し焼きあげられるから水を差す必要はないからね。

少し硬めの黄身がいいなら2分経って火が消えてからも蓋を開けずにもう一分だけ待てば箸で持てそうな目玉焼きが出来るよ。
でもそんな目玉焼きが好きな人はいないだろうから、2分経ったらすぐに蓋を開けてお皿に取り出すこと。
これで完璧な黄身がトロトロの目玉焼きができるよ。

岸くんもすぐ来るだろうからさっさと作ってしまおう。
ほうれん草の根を切り落として水を張ったボウルに浸けてよく洗い土を落とす。根に近い部分はよく土が溜まっていることがあるから一本一本を丁寧に指でこすり落すように念入りにね。

ピンク色の根っこは爪で薄皮をこそげ落として先に小鍋に入れておく。これを捨てるなんてとんでもない。
洗い終えたホウレンソウの水気を落として切り分けたら小鍋に入れて再び煮立つ前に顆粒の昆布ダシと味噌を溶かし入れてひと煮立ちしたらすぐに火を止める。

スキレットを乗せたコンロが2分のアラームを鳴らしたと同時に岸くんがタンブラーを片手にキッチンへと入ってきた。

岸はベッドの上で、頭痛が少しでも和らぐようにと眠るでもなく目をつぶって静かにしていた。
30分か40分経った頃だろうか、スピーカーから「朝ご飯の準備ができました。キッチンへどうぞ」と音声が流れた。

後藤のやつが作るメシは男が作ったとは思えないシロモノだ。
メインのおかずに副菜があり、そこにちょっとしたサラダやお浸しといった野菜類、そこにさらに何か小鉢をつけてくることもある。

後藤が飯を作るとご飯と味噌汁とは別に皿を3枚も4枚も並べる。いつもはありがたく食べているが今日みたいな日は勘弁してほしいんだよな。

でも、だからと言って、「今日はいらない」だの、こちらで何かメニューを決めさせてもらうような真似はしない。

後藤のやつは俺の嫁さんじゃないし、俺のメシ係でもないからだ。だから最低限の礼儀として作ってくれるものは黙って食う。

だが今日はキツい、さすがに残してしまうかもしれない。
それなら先に言っておくべきだったか?
いや、あっさりでとは言っておいた。

岸の頭痛はかなりマシになったがまだ残っていた。こめかみを軽くマッサージしながらキッチンへと向かった。
後藤がキッチンへと入るとヒラリーダフのウェイクアップが流れていた。

ハードロックやヘビメタじゃなくてまずは一安心だ。後藤の奴は洋楽しか聞かないが、洋楽なら何でもいいのかってくらいだからな。

後藤の奴は卵を焼き終えたところみたいだ。

「もうできたから」後藤が言った。

岸が手にしていたタンブラーに水を注ぎテーブルにつくとそこに乗っていたのは青菜の炒め物?だけだった。後藤の奴が目玉焼きが乗った皿と湯気の立つ味噌汁をテーブルに乗せた。ご飯をよそってそれで全部か?

味噌汁に細かく刻んだ青菜の炒め物と目玉焼きしかない。少なくないか?いや、ちょうどいいか。目玉焼きで半分くらい白飯を食べてあとは味噌汁で流し込めばいいだろう。下手にソーセージとか納豆とか出されるよりははるかに良い。
最悪なのは卵かけご飯だな。
二日酔いの頭痛に、胃が仕事をしないどころか下手なもんを入れてきたら追い返してやるぜって怒っている時にドロりとした卵かけご飯は最悪だ。

後藤が冷蔵庫から海苔の佃煮とふりかけを持ってきてテーブルに置き茶碗に白飯をよそってくれた。

さ、どうぞ。と後藤は岸に手を向けながらお茶を淹れた急須をテーブルに追加した。

岸は当然のように両手で大事そうに汁椀を手にした。
どうやらホウレンソウの味噌汁だ、これは助かる。こんな日に玉ねぎの入ったジャガイモの味噌汁やとろろ昆布の味噌汁だったら吐き出しそうだ。

岸は両手に持った味噌汁を一口すすった。

はあぁ……ため息がもれた。

日本人なら二日酔いの朝に口にする味噌汁はエリクサーのようなものだ。海外でもこういった物はあるのだろうか?

大げさに言えば生き返る味だ。いつもより少しあっさりとしている気がする。もちろん岸にはそれが何かは分からない。でも・・。

思わずもう一口すする。岸はフーっと安堵の深いため息をついた。

食欲がわいてくる。
タンブラーの水を一口飲んでから目玉焼きを飯の上に乗せ、箸で黄身を軽く割ってから醤油を垂らす。軽くかき混ぜてからご飯と共に掻き込んだ。

不思議なもんだ。何も食いたくないと思っていたのに目玉焼きがあっという間になくなって残念ですらある。

この刻んだ青菜は?と訝しげに見ると後藤が急須を指さしながら言った。

「それは大根の葉っぱだよ。少し濃い目に味付けてあるからお茶漬けにどうかなって」

なるほど、お茶漬けか、最高じゃないか。
岸は白飯に炒め菜を乗せお茶をかけた。

「あとはふりかけでもいいし」
後藤がそう言ってテーブルに置いたふりかけと海苔の佃煮の入ったビンを指し示した。

岸はまずそのままの大根の葉っぱ茶漬けを口にした。ほんのりと胡麻が香る醤油味だった。かなり炒めているようだがシャキシャキした歯ごたえがまたウマい。後藤は濃いめとは言ったが確かにお茶漬けにするとどこか物足りない。岸はお茶漬けの上にふりかけを足して軽く混ぜてからもう一口。
ああ、ちょうど良い。
後藤の飯は本当に、いつもウマい。

岸は二日酔いだったことも忘れたかのようにあっという間に食べ終えた。

後藤を見るとお茶漬けにはせずに大根の葉っぱをオカズに飯を食っていた。

あんなに飲んで二日酔いにならないとは羨ましいな。お前が飲んだのはタンカレーとロクだけじゃないだろ?

それは分かってはいても岸は口には出さない。

オレもだいぶ飲んだからな。

岸は早々に朝食を終え自分の茶碗と皿をシンクへと運びコーヒーを淹れる準備をし始めた。

「飲むだろ?」岸が聞く。

「ああ、ありがとう。薄目のブラックがいいな」後藤が答える。

今日は特別にブルーマウンテン100%にしよう。岸は冷凍庫からコーヒー豆を取り出しミルで挽きいつものようにゆっくりとコーヒーを淹れるころに後藤も食事を終え食器をシンクへと置いた。

「今日は少し遅めにする?」
後藤がコーヒーを受け取りながら言った。

「いや、大丈夫だ」
岸は熱々のコーヒーをすすり答えた。

「いや、やっぱり少しゆっくりさせてくれ」

岸はすまなそうにそう言ってキッチンを出ながらふと思った。

いくら酒を飲んでも二日酔いにならないのと、眼鏡をかける必要がない程度に視力を保てるのはどちらがいいのか?

飲まなきゃいいんだけどな。

岸はこめかみを押さえながら自室へと戻った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?