ソニー・ロリンズの思想実践3 音色の探究と発掘①補遺(1)・(2)

はじめに

 先に『ソニー・ロリンズの思想実践2 音色の探究と発掘①』を公開していますが、前書きに記した通り、意を尽くせぬ箇所や抜け落ちた点が甚だ多く、今後読者諸賢のご指摘に沿って修正すべき箇所も多く出てくると思われます。
 当初、それらは随時本文の改訂で対応するつもりでした。しかし、そうすると読んで下さった方々に対する修正の告知が欠かせず、一方で読まれた方々はその箇所を探さなくてはならなくなります。筆者のnote経験からも、修正の案内にいちいち答えるのはかなりの負担になります。もちろん筆者自身も文章の書き換えが場合によっては広範囲に及ぶことが考えられます。これは、筆者にとって時間の負担が大きいのみならず、一度読まれた方にとっても探しかつ読む時間の負担に加え、修正の必要を知らずにいる時間もロスが大きくなります。
 そこで、追加事項や修正事項等を、「補遺」として発表することを思いついた次第です。

 誰でも変更や追加の項目のみを簡単に拾えるよう、通し番号をつけて随時かつ逐次追加項目を挙げていく方式を採用します。タイトルに「(1)」から項目数の最終番号までを示し、読者の方々が見る必要の有無を即座に判断できるようにします。

(1)とりあえずサックスの「リード」と「音量」の2点

   『元吹奏楽部員のジャズのススメ』
   https://note.com/ikedih/n/n8e73d5b5d22d
       のコメント欄でikedihさんが丁寧に教えて下さいました。大変ありがたかったです。ikedihさん、記事本文で初めてhidekiさんの逆綴りと知りました。ロリンズの“airegin“(「ナイジェリア」の逆綴り)の流儀で、勝手に嬉しくなりました。

①うまい人ほど硬めのリードとそれに合うマウスピースを使う傾向あり。

 したがって、拙稿中の「厚いリード」は「硬いリード」と改める方が内容が妥当になると思われます。拙稿は「音の出しにくいリード」を考えていたものです。書の喩え等にも、「硬いリード」で文脈は変わらないと思います。(「厚い」ものは、同質なら「薄い」ものより当然「硬い」と思いますが、厚くても柔らかい物もあるのでしょうから、ここは「硬い」というべきでしょう。)

②上手な人は必ず音量が大きい。

 大きい音で吹けない人が、小さい音で上手に吹けるということは絶対に無い、とのこと。そうすると、拙稿の『「デカい音」という価値』には、もっと重要な側面が抜けています。
 拙稿の大意には変更の必要が無いかと思います。

(2)意識と音色

 この節では、表現者の、表現にまつわる意識について考えます。『ソニー・ロリンズの思想実践 2   音色の探究と発達』において、これが十分に検討されているとは言い難く、そのせいで議論が不分明になっていると思われます。ここではそれを補い、ロリンズの掘り当てた音色の意味をより明確にしたいと考えました。
 なお、今回、大脱線のように文学に言及しています。
 ただでさえ読みにくい文章に、生硬な文学談義まで延々とやられて、我慢ならない読者の方も多いかと思います。
 音楽は元々言葉で語りにくい上に、同じものを聴いていても同じ聴き方が共有できているかどうか確かめる術が無く、客観的な議論をするのが困難です。
 もちろん、ことは文学でも本質的には変わらないのですが、そもそも作品が言葉だということもあり、また文字で記されているせいで、誰もが何度でも実作に戻って細部まで確認できるという点で、音楽よりは議論が見やすくなるのではと思いました。一応、そのような見通しを立てたのは本当なのですが、現実には、文学になると余計に語り方が抽象的になり、却ってわかりにくくなってしまいました。しかも、一目でおわかりいただけるとおり、内容上も分量上も逸脱が過ぎている、と認めざるを得ない現状です。
 ただ、一つには、ロリンズを巡る筆者の議論が、趣味嗜好や個人的感想の領域内の述懐ではなく、文化論的視点を有する議論であることが了解される必要があるとの判断から、あえてこの逸脱を断行しました。そして、筆者のロリンズ理解のバックボーンである文学認識(それがどの程度妥当なものかはさておき)のありようがある程度詳細に示されることで、筆者のロリンズ認識の面倒臭さが多少なりとも理解いただけはしないかと願うものです。
 このような議論が不快な方、面倒くさくて付き合いきれないという方は、結論めいた箇所だけ拾ってご納得できたことにして頂ければと思います。

「意味」

 本シリーズの『2 』で、(絶望に苛まれている人には)「全ての『意味』は疎ましく、あらゆる他者の『意識』は苦痛」だと述べました。

 音楽(歌詞のある「歌」をここでは除外して考えています)から、人々は通常どのような「意味」を受け取るでしょうか?
 「意味」?音楽にそんなものは無いよ、というのは大いに正しい見解でしょう。
 しかし、『栄冠は君に輝く』の器楽演奏が流れた時、私たちは何も「意味」を感じないでいられるでしょうか?高校野球の応援席から湧き上がる吹奏楽の合奏に「意味」は無いと言い切れるでしょうか?近年盛んなペット動画で、ペットのユーモラスな動きなどのバックになぜ音楽が流れるのでしょうか?
 音楽に「意味」は確かに無いとしても、私たちには多くの場合にその「意義」は感じられているかも知れません。そして、その「意義」は、実は、さまざまな音楽がこれまでに蓄積してきた「表現と鑑賞の歴史」との関係で定まるものと言えそうです。
『ロリンズ・プレイズ・フォー・バード』中の“Bird’s Medley”の演奏、とりわけメドレー中の“They Can’t Take That Away from Me”のくだりは、この曲にまつわる「意味」や「意義」を、いったん全てきちんと剥がします。この歌曲が当初前提としていたし、その前提で聞かれてもいた「抒情性」が、剥がれ落ち拭い去られ、メロディーがくっきりと洗いだされます。演奏は「意味/意義」以前の裸形のメロディーを奏でることで、「意味/意義」を喪失した絶望主体に対等に語りかける時間を作ります。

意識・自意識

 では、一方の「意識」に関してはどうでしょうか?
 これを考えるために、この節では、頻繁に「意識」や「自意識」といった、ここまで避けて来た言葉を用います。
 ただし、ここでは、哲学にも心理学にも大脳生理学にも関わるつもりはありません。「意識」をどう定義づけるかという厄介な問題は回避します。(すなわち極力常識の範囲で意識を扱います、というより、それ以上のことは筆者の能力を超えています。)

 ただ、最近とみに見かけること少なくなった、この「自意識」という単語については、ひと言注釈の必要を感じます。というのは、その意味を取り違えられているケースが余りに多く見られるからです。
 「自意識」(または「自己意識」)とは、「自分で自分を意識する」ことです。気をつけて頂きたいのですが、これは「自分を特別視する」意味ではありません。にも関わらず、どういう事情か分かりませんが、「自意識が強い」という言葉は、「プライドが高い(誇り高い、自負心が強い)」・「自尊心が強い」・「うぬぼれが強い」・「自己評価が高い」などの意味で使われたり理解されたりする事例にたくさん出会います。自意識は、プライドや自負・自尊などの感情ともちろん無関係ではありませんが、はっきり別の意味内容であることをご確認ください。「自意識過剰」とはどんな意味か、ウイキペディア等で押さえていただければと思います。

 自意識の特質の一つに、「際限の無さ」があります。自分を意識する、自分を意識するその自分を意識する、自分を意識する自分を意識する自分を更に意識する、という、俗に「合わせ鏡」の比喩で語られる作用です。やがて自意識は、こうした自意識のはたらきそのものを意識します。(意識が意識を意識するわけです。)この、謂わば、「自-自意識-意識」というべき意識作用そのものをさらに意識する、すなわち「自-自意識-意識の自意識」は大変厄介なもので、これは、プライドや自惚れや自尊心などとはおよそ対極に近いような自縄自縛に意識主体を追い詰めることも稀ではありません。
 自意識にはもう一つ注目されるべき特質があります。それは、自意識によって自己もまた他者になる、ということです。自意識は自己を意識するはたらきですが、それによって自己が意識の対象となってしまいます。「自分」は、「自分」という他者、「自分」が全面的に依存せざるを得ない他者、そしておそらくは竟に把握しきれない最もタチの悪い他者となるでしょう。

表現と表現享受との近代的特質

 20世紀に始まったジャズは、誕生の最初から、近代消費社会の音楽でした。

 近代が表現活動とその享受・鑑賞にもたらした決定的な変化は、表現を買う不特定多数の消費者の出現です。
 表現者は今や権威や権力の庇護や注文に拠らない、普遍的価値を追求する独立不覊の表現主体として、単身、表現市場に打って出なければなりません。ここでは表現者ひとりひとりが、他の表現者とは異なる個性と技量を示さなくては、消費者を獲得出来ません。権威や伝統的技法を打破する新しい個性的な表現者が輩出することになります。
 近代市民社会が成熟してゆく時、顔の見えない不特定多数の消費者に対して、表現者は享受者層のあらゆる視線に応えようと意識を研ぎ澄ましてゆく過程が必然的に生じます。表現者は、自らの資質や欲求や願望や理想の一切を自らの前に引き据えて、過去の芸術表現と対決し、不特定多数の享受者(その中にはもちろん家族や友人、同業の表現者やその予備軍の誰かれといった特定少数者?も含まれます)の多様な鑑賞意識に応えようと意識をはたらかせるようになります。

 こうして近代は、かつてなかった「表現の自意識」を表現者にもたらします
 筆者は実態をほとんど知らないのですが、伝えられるところ、音楽では、有名なエリック・サティがおそらく最も極端にそれを反映した一人と言えるのでしょう。彼は自らの自意識そのものを作品化出来ない(原理的に音楽ではほぼ出来ないはずだと思いますが)ために、それを作品発表の仕方において発揮するほか無かったと言えます。
 この自意識過剰な表現者の意識は、当然その表現形態に反映され、享受者もまた表現者の自意識に鋭敏に反応するようになります。

 わかりやすく近代日本の文芸の例で言えば、二葉亭四迷は最も早く知識人の自意識に表現を与えた文人の一人でした。やがて夏目漱石というメジャーな表現者をはじめ、自意識への対処を重要課題として取り組む表現者たちが続々と現れます。大正文壇の寵児と呼び習わされる芥川龍之介が、人気の翻案ものなど明確な虚構を打ち出した小説から、次第に『闇中問答』『或阿呆の一生』といった、虚構を排する散文へ傾斜して行きます。牧野信一の『西瓜喰ふ人』、梶井基次郎『愛撫』、中島敦『山月記』などは、小説の「話者」がいかに成立するかという問題への模索と無関係には成立しないものでした。萩原朔太郎『月に吠える』、宮沢賢治『春と修羅』、中原中也『山羊の歌』などの詩集は、自意識のはたらきが詩の成立に直結してしまうことを鮮明に示し、かくて自意識文学の傑作群が百花繚乱の観を呈します。

自意識への対処

 道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふ頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つてきた。
 私は二十歳、高等学校の制帽をかぶり、紺飛白の着物に袴をはき、学生カバンを肩にかけてゐた。一人伊豆の旅に出てから四日目のことだつた。修善寺温泉に一夜泊り、湯ヶ島温泉に二夜泊り、そして朴歯の高下駄で天城を登つて来たのだつた。重なり合つた山々や原生林や深い渓谷の秋に見惚れながらも、私は一つの期待に胸をときめかして道を急いでゐるのだつた。(後略) 

川端康成『伊豆の踊子』冒頭(新潮社版「川端康成全集」第二巻)原文は縦書き、正字使用

 国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた。夜の底が白くなつた。信号所に汽車が止まつた。
 向側の座席から娘が立つて来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いつぱいに乗り出して、遠く、叫ぶやうに、
「駅長さあん、駅長さあん。」
 明りをさげてゆつくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れてゐた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラツクが山裾に寒々と散らばつてゐるだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれてゐた。(後略)

川端康成『雪国』冒頭(同 第十巻)同上

 諸君は、東京市某町某番地なる風博士の邸宅を御存じであろう乎?御存じない。それは大変残念である。そして諸君は偉大なる風博士を御存じであろうか?ない。嗚呼。では諸君は遺書だけが発見されて、偉大なる風博士自体は杳として紛失したことも御存じないであろうか?ない。嗟乎。では諸君は僕が其筋の嫌疑のために並々ならぬ困難を感じていることも御存じあるまい。しかし警察は知っていたのである。(後略)

坂口安吾『風博士』冒頭(「筑摩現代文学体系58 坂口安吾集」)原文は縦書き・ルビつき

(引用した3篇のうち、『風博士』原文は当然、正字・歴史的仮名遣いであるべきところですが、手元に拠るべき底本を有さないため、やむをえずこの形で呈示します。)

 これらの作品が言語芸術作品であるのは、例えば、二十歳の旧制高校生と、旅芸人一行の中の数え年十四歳の踊り子との出会いと別れ、その淡い純愛と交流を、伊豆の美しい風景の中に瑞々しく描き出しているから、ではありません。そういうことなら、漫画ででも実写映画でもアニメ作品でも同じことができるはずです。事実、伊豆の踊り子は何度も映画化されています。しかし、誰もが知っているように、それらの映画を見ることは、『伊豆の踊子』を読むこととは、はげしいまでに別のことです。(エラ・フィッツジェラルドの歌う“They Can’t Take That Away from Me”を聴いても、それが同曲のロリンズの演奏を聞いたことにならないのと同様です。)ロリンズの演奏が彼の音色によって成立しているように、『伊豆の踊子』が言語芸術作品であるのは、その「内容」とされるものがもたらす感動を実現するような「文章」で書かれているからです。それは、読者の自意識と対作者意識、作者の自意識と対読者意識の全てを克服して作品が展開するための文章でなければなりませんでした。

 読者と作者の双方の意識の磁場をどう突破するか。『風博士』は、私たちの意識が麻痺しているような定番紋切り型演説口調のまくしたてによってそこを突破しようとします。あたかも自意識を持ったひとりの話者の語りなどではないかのような書き出しです。これはジャズで言えば、いきなり、誰もが耳にタコができているようなニューオリンズ・ジャズの演奏を大編成の楽団で奏でてみせるようなものでしょうか。

 『伊豆の踊子』は、意識の修羅場を突破する、というより、読者の対作者意識の死角から言葉を発し連ねることで、意識の修羅場の葛藤を回避する方法を探りました。
 「死角から」発する方法とは、これまでに社会に蓄積され複雑化され、(特に書き言葉の領域で)練り磨かれてきた、言語の基本に忠実に立脚した精妙な言語配置を発掘的に展開することによって、作者の対読者意識を消去したかのように(または読者のために表現を模索しているように)見せる方法です。(「道がつづら折りになって」…ここにある「道」は、話者兼主人公の状況ゆえにある「道」なのですが、読者にはこの時点では話者の「私」が見えません。作者は話者の位置と状況を巧みに徐々に浮かび上げつつ、読者の意識が話者を捉えるのを回避しています。)文章を辿る読者の目には、作者が読者の方を向かず、読者と同じ向きで自分の文章を読んで噛み締めているかのような印象になります。川端の読者は、話者の「透明な後ろ姿」越しに言葉を辿る気分になるか、または読者自身の読む言葉を背後から作者川端が読んでいるような印象を受けるでしょう。読者が文章を辿る時間経過に沿ってそのような言葉を実現するために、自意識の権化のような作家は、その自意識を絶えず自己消滅・自己不在へと機能させる方向へはたらかせ、意識に曇らされない裸の感覚を外界に晒してその感覚経験を言葉で採集しようと努めます。(能における、シテに対するワキのはたらきを連想させるものとも言えるかも知れません。)例えばこのような試みが作家川端の言語の仕事の真の意義であり、『伊豆の踊子』が言語芸術作品であるということの意味だと筆者は考えます。
 それぞれの作家が独自性を打ち出すことを強いられる近代文学において、読者の背後に回ってそこから言葉を発するような川端の方法は、才能犇くジャズシーンにあってソニー・ロリンズが『ワーク・タイム』の“It’s All Right with Me”や『ロリンズ・プレイズ・フォー・バード』の“Bird’s Medley”で行った方法に通じるものだと言えないでしょうか。『伊豆の踊子』という作品における文章(あるいはもう少し踏み込んで「文体」(註1) と言いましょうか)に当たるのが、“It’s All Right with Me”や“Bird’s Medley”の演奏における音色であると筆者は考えます。
 『伊豆の踊子』と“It’s All Right with Me”で享受者が経験する時間は全く印象が異なります(かたや静的、かたや躍動的。また、かたや繊細、かたや豪放)。しかし、ここに聴かれるロリンズの、誰がどこから出しているのかわからないような、聞こえたときには既にしっかりとそこにあるような幽かな音色は、川端の文章の文体成立の原理と驚くほど似ている、と筆者は考えます。聴き手の意識の裏側を走り抜けて行くような音色の、しかし緻密でスキの無いそのメロディーが、逆説的に奏者に対する聴き手の信頼を生じ、その類例の無い音楽を実現していきます。『伊豆の踊子』の、作者を消したような文章が語り手の「私」の承認を整えるのと同じ道行きだと言えましょう。

(言語芸術というものがもしありうるとすれば、それは大枠ではさしあたり、音楽と共通する、時間と共に展開する一次元芸術、時間芸術、ということになるでしょう。一語一語の連なりの時間に沿った展開だけが作品です。
『伊豆の踊子』は、この冒頭の一文の、「私」という単語の登場のし方に、作品の成否がかかっていました
 作品は、実は「私」を語るためのものであり、踊子を語るためのものでないことは、実際に一読すれば誰でも納得できるでしょう。「私」は、「踊子」やその一行に出会い、交流することによって、あるいは踊子に惹かれることによって、かろうじてその自意識に存在を肯定され(もしくは存在が自意識を脱け出して肯定され?)るもののようです。自らを受容・肯定してくれる一行との別れ、とりわけ自分に思慕を募らせ深く別れを惜しんでくれる踊子との別れによって、「私」が自意識地獄から解放され存在を肯定されることがこの作品の呈示する物語です。それが成し遂げられる過程で、「伊豆の自然」をも含めた他者たちの存在の種々相が浮かび上がります。自然をも含むあらゆる他者たちの刻々の細やかな営みの全体が、自らの生を繋ぎとめてくれるこの世界であることが確認されます。それら、話者にとってかけがえのない存在が、透明化された話者の語りで読者に残響します。タイトルが「伊豆の踊子」になる所以です。)

 こうした不思議な逆説的表現構造を表現者が必要とする背景には、対他・対自の意識に苛まれ蹂躙される表現の意識現場があります。何よりも意識そのものによってもたらされる、いわゆる「出口無し」の苦悩があると言えるでしょう。そのような状況を生きる精神が自らを語ろうとすると必然的に自己言及のパラドックスに陥ります。「自己を語る」というサブタイトルを持つ川端の文章は『嘘と逆』と題されています。『ワーク・タイム』所収のソニー・ロリンズのオリジナル曲のタイトルが“Paradox”であるのは、筆者には決して単なる思いつきや偶然の出来事には見えません。
 こうした、表現にまつわる自意識の問題は、今日ほとんど消滅したように見えます。J-popの作り手たちの多くは、かれらの曲作りにおいて、表現にまつわる自意識への対処に苦しんではいないように見えます。歌詞に吐露されるのは自意識というよりは生き方や挫折や愛の思いであり、それも曲の時間内に収まるように調整しておけば事足りるようです。課題がひたすら新しい技法と形態との開発に絞られたことで、驚異的に複雑で洗練された大衆歌曲が編まれつつあるように見えます。(この、思想によらない新しい技法と形態との開発洗練こそ、実は日本文化の根源的本質です。源氏物語絵巻も有田焼もウオークマンもQRコードも、テクノロジー・ジャパンの産物です。)かれらにとって、音楽は洗練され気に入られる形であれば十分にその機能を果たすものであるようです。私たちはほぼ偶然に出会うそれらに、好きか嫌いかの反応を示すことしかできません
 noteに氾濫する夥しい小説や詩は、その大半が、叙述と発表という行為自体の至福の陶酔に遊ぶものと見えます。
 こうした自意識の希薄化は、おそらく、ネット環境の加速が大きく関わっているでしょう。有名無名を問わぬ発信者と受信者の絶え間無い交信が、自意識の増大増幅する暇を私たちにほとんど与えません。暇が無いのは自意識の成熟だけではありません。情報と交信との絶え間無いどしゃ降りの只中からかた時も脱け出せない私たちには、表現がそもそも何のために必要か、何を求めて表現しようとしているのか、それは果たして本当に表現においてしか実現しないものなのか、といった問を深める暇がありません。

 自意識に苦しまなくてはならないのは、それがわたしたちの実現したい関係を妨げるからです。どのような音の連なりならば、わたしたちがその時間を共有することで望ましい世が見込めるのか、その模索のあるところ、常に表現のあり方が問い返されざるを得ません。二十代半ばのロリンズが、麻薬を断って再起に努めた時、彼のサックスから迸った音は、誰もが深く共感して快く生きられるべき、絶望のさなかから他者を希求する音色であり、ひとりひとりの孤独の底辺で聴き手と相互了解を樹立しようとする音色でした。

 1)川端康成の作品に文体など無い、という言説があります。ある作家や作品に文体があるかないかは、読み手によって判断が分かれるところでしょう。(周知のように、三島由紀夫は『文章読本』で、芥川龍之介には文体は無い、と言っています。筆者は、芥川の文章は初めて読むものでも芥川と判定できる明瞭な特徴、すなわち文体、を有するように思います。)川端に文体があるか無いかは、文体の定義によっても議論が分かれるでしょう。

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