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正解は自分で出すから、ただ聞いて欲しいんだ

1年ぶりに集まった高校の小さい同窓会、隣で煙草を吸い始めててなんか少し悲しかった。

私は煙草が嫌いなんじゃなくて、
喫煙の居酒屋だからって、やめて欲しいって直接言っていいか分からないから分かりやすく嫌な顔してる友達の傍で、普通に吸い始めちゃうようなモラルのない人間が煙草を吸うことが嫌いだと思うタイプの人間だったらしい。


大学で自分と似たような人が集まるコミュニティだけで息をしていると、なんとなく世間は自分と似たような存在だけで出来上がっているんだと勘違いしてしまうんだと気づく。

こうやって自分にはない、普段は関わらないタイプの正解を持っている人と交わり合うと、気づかなかった私の側面に出会える。
同時に自分の正解にそぐわない人を否定しようとする自分にも遭遇する。

人にはそれぞれの正解や答えがあって、それは自分で出さなければいけないものなんだと思う。そしてそれらは平等に尊重される価値がある。

私という存在が出した正解が、理解出来る、興味がある、または一緒にいたいと思える誰かの正解に寄り添いながら生きればいい。

ついつい私たちの抱く"常識"という虚像から逸脱している正解を見つけると、私たちはその正解を「それは間違っている!!」猛烈に否定し変えようとしてしまう。

けれどその行動こそが諸刃の剣で、自分が本当にやりたい虚像の常識から外れた行動を、他人からの否定を恐れ動けなくする1番の要因なのではないか。



自分から理解出来ない正解には、ただ「さようなら」と離れる。
誰かを否定しないことは私の正解を否定しないことに同義であり、私を否定しないことは自分を生きやすくすることに過ぎないのかもしれない。

それが、私の正解。

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