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購入した日中対訳本に掲載されている、太宰治『桜桃』中国語訳がいまいちだった件

 先日以下の記事で言及した日中対訳の短編小説の本が届いたので、適当な小説から読み始めた。最初に読んだのが太宰の『桜桃』で、思うところあって日本語の方を分析していたのだが、その過程で中国語訳にやや問題があることがわかった。

 『桜桃』では、語り手の人称が「私」「父」「夫」と使い分けられているのだが、すべて「我」(私)に統一されている。私が読むところ、この小説において人称の使い分けは極めて重要であり、これを統一してしまうのは大いに問題がある。
 別の記事で詳細は書こうと思うが、原作において「父」という人称は夫婦と子供に関係することに言及する際に用いられ、「夫」という人称は夫婦関係に関することに言及する際に用いられる。つまり、語り手がどの関係性に属しているかにおいて、使い分けられているのである。
 冒頭、「子供より親が大事、と思いたい。」と述べているのは「私」なのだが(厳密に言えば、第一段落で用いられる人称が「私」であり、「私」が「子供より親が大事、と思いたい。」と思っているとは書いていないが)、結末で心のなかで「子供よりも親が大事」とつぶやくのは「父」である。

 要するに「父」として語る部分、「夫」として語る部分、それ以外は「私」として語るのだが、それが翻訳では全て「私」の語りとなってしまっている。本末転倒である。
 別に『桜桃』に限らず、太宰の小説は演じたりよそおったりすることが多いので、なにに(どんな関係に)依拠してそれがなされるかは外すべきではない。
 なので、別に流し読むならどうでもいいのだが、じっくり読もうとするとこの翻訳はいまいちだなと思った次第である。(そういえば先の記事でも書いたが、この本の表紙の日本語もいささか怪しかった)。

 なお、他の部分については私の中国語力では判断ができなかった。

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