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スマブラステージ【AD.1963.雪山遭難】

雪山で遭難者を探すヘリコプターのスマブラステージ。
強風にあおられたヘリコプターが、揺れながら空を飛ぶギミックを楽しめます。

洞窟の中は風が吹いていないので、戦いやすくなっています。


・登山の近代化

 古代から人間は、山で狩猟採集を行い、恵みを得ていましたが、山で命を落とす者は多く、山は恐怖の対象でもありました。
 古代から中世において、山は神や魔物の住処と考えて、山になるべく近寄らないようにするのが、世界的な傾向でした。

 ところが、近世のヨーロッパで、風景を楽しむための登山や、登山の技術を磨き、困難な登山を成し遂げることで、喜びと感動を得る、スポーツとしての近代登山が盛んになります。
 特に18世紀後半のアルプス山脈で、高くて難しい山に挑むスポーツとしての登山が盛り上がり、ピッケル、登山靴、防寒具、テント、クライミングロープ、携帯食などの登山用具と技術が発展しました。近代的な登山を指す「アルピニズム」、登山家を指す「アルピニスト」はアルプス山脈を語源としています。

・日本の登山

 古事記と日本書紀によれば、英雄の日本武尊(ヤマトタケル)は伊吹山を訪れた時に、山の神が起こした悪天候で、体調を崩して落命したとされています。

 日本では、こうした恐ろしい山に、むしろ登ろうとする傾向があり、中世には修験道など信仰や修行としての登山が行われていて、江戸時代には庶民による、山の神から御利益を得ることを目的とした講中登山が盛んに行われていました。

(江戸時代には庶民の旅行は禁止されていたが、信仰が目的の旅は許されていたので、巡礼を口実にして旅行を楽しんでいたという側面もありました)

 明治7年(1874年)に、お雇い外国人のゴーランド、アトキンソン、サトウの3人が六甲山を登ったとき、ピッケルと登山靴を用いた西洋式の近代登山が日本に持ち込まれました。「日本アルプス」の名称は1881年にゴーランドが命名したもので、日本のアルピニズムの中心地となりました。

 明治時代後期以降、登山は大衆に広まり続け、1937~1945年の日中戦争、太平洋戦争で一度下火になるものの、戦後には再び活発になります。


 登山者が増えると同時に、遭難事故も増加しました。主な遭難の原因は、登山道を間違える、転落、滑落など、特に吹雪の時は視界が極端に悪化して、道を引き返すことも難しくなるので、遭難の危険が高まります。

・ヘリコプターの登場

 1936年、初の実用的なヘリコプターが開発され、1947年に軽量で高出力のターボシャフトエンジンが開発されて以降、より安定した飛行ができるヘリコプターが作れるようになりました。

 ヘリコプターは、固定翼の飛行機と比べて、垂直上昇、垂直下降、空中静止(ホバリング)、狭い場所で離着陸など、山岳遭難者の捜索、救助にうってつけの能力を持つ航空機で、多くの遭難者を救ってきました。
 しかし、ヘリコプターは強風と悪天候の影響を受けやすく、特に強風時のホバリングは極めて困難で、最悪墜落の恐れがあるので、いつでもヘリコプターが救助できるわけではなかったのです。

・1963年、恐怖の豪雪

 1962~1963年(昭和37~38)、赤道付近の暖気と、極地付近の寒気の平衡状態が乱れ、北半球全体で異常気象が起こりました。
 日本では歴史的な豪雪(三八豪雪)が発生し、よりによってこんな時期に登山を強行した、愛知大学山岳部員13名が、全く視界が効かなくなった吹雪の山(日本北アルプス薬師岳)で遭難しました。

 救助隊と報道機関は、わずかな晴れ間を狙ってヘリコプターを飛ばして、全力の捜索をしました。特に報道機関の取材競争は過熱し、1月末まで、のべ2336名、ヘリコプターのべ60機が動員されましたが、雪が降り続ける山での捜索は困難を極め、遭難者の発見は叶いませんでした。
 大規模な捜索は打ち切られ、結局、部員の遺体は3月以降に他の登山者によって発見されます。

 現在では、ヘリコプターに加えて携帯電話やGPSなどの技術も発達していますが、それでも遭難事故は多数発生しており、人間は山の危険性をいまだ完全に克服できていないと言えます。



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