ツムリ
僕と彼女にとって三度目の初夏を迎えたある日。
彼女がアパートの外壁に張り付いていた蝸牛をみつけてきた。
なんで蝸牛なんか持ってくるのかと言おうと思ったけどやめにした。
このところ僕らは、一緒に暮らしていく自信を失くしていたし、なによりも喧嘩の火種になりそうな言葉を極力さけるようになっていた。
ただ一緒にいる、という不安とともに……。
そこからはどこにも行けなかった。
外側にも……。
内側にも……。
でも僕らの場合のそれは共依存特有のなにかとも少し違った。
“八方塞がってどこにも行けなくなったら深く掘り下げよ”という格言を耳にしたことがある。
いっそ地下核シェルターを彼女とシェアすべきだろうか。
「飼ってもいい?」 と彼女は蝸牛をつまんだままそう言った。
「べつに、君の好きにしなよ。だけど蝸牛ってどうやって飼うのか僕は知らないよ」
もう少し柔らかい言い方をすれば良かった。
彼女は蝸牛のお腹のあたりを下から覗きながら、
「わかった。とにかく飼うね。なんだか死んじゃいそうに見てたから」と空色の声音で言った。
今日は快晴だった。
「そうなんだ。僕は生き生きとしてる蝸牛をあまり見たことがないけどね」と言って僕はあごの辺りをさすった。
髭が少しの伸びてきたみたいだ。
彼女は僕のその言葉をよけるようにして玄関からキッチンのほうへとスタスタと歩いていき、
「それはアジサイがフレッシュにすぎるからじゃない」というよくわかからない言葉をひとつ落としていった。
僕は彼女の背中に向かって黙ったまま何度か頷いてみせた。それは彼女と一緒に暮らしていくうちに覚えたある種の処世術でもあった。
そしてその次に、彼女は蝸牛を見つめたままで印象的なことを言った。短く。
「ツムリにしたから」
── ツムリに したから。
「ツムリ?」
「この子の名前」
「ふうん」と言って僕はさっきより多めに頷いた。それは素直な感情から来るものだった。
彼女はちょうどいい大きさのタッパウェアをみつけだし蓋をひっぺがすと『ツムリ』を入れた。
「よろしくね、ツムリちゃん」
彼女はそう言ってタッパにサランラップをかぶせ、箸でいくつか穴をあけたあと、
「で、次はどうすればいい?」と僕に訊いた。
あの頃、お互いに孤独だった、だから暮らし始めた。
「とにかく、君と僕とそのツムリとで暮らしていこう」と僕は言い、洗面所に髭を剃りに向かった。
終
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