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【無我霧中-17】聞こえる魔法

最近、訳あって映像制作に奔走しております。

割と壮大な映像を作ってしまったがために、映像のエフェクトに対する音源、効果音を盛り込みまくっていたらえげつないことになった。

普段映画などで使われるセリフ以外の音の1つ1つが何個の音からできているんだろうかととても興味を持ったとともに、途方もない努力をされているんだなと感じた。

具体的に言えば、僕はたった30秒ちょっとの映像で10個以上の音を使った。

僕の好きなゲーム、キングダムハーツやファイナルファンタジーでは、魔法が頻繁に使われる。その1つ1つの魔法が何種類の音から織りなされているのか、それが1つの音として聞こえる、それこそ本当に魔法だと思う。

でも、これは制作している側だからわかることであって、映像を見た人には1連の1つの音としか聞こえない。逆に言えば、そこまでナチュラルに仕上げて届けなければならない。1つ1つが認識できてしまうということは仕上がりにムラがあるということだ。

ただ、これは映像や音源に限ったことではない。

普段生活している家や、普段食べているパンなどどうだろうか。

新築だったら綺麗だ。そんなの当たり前だ。
と思うかもしれない。

壁紙がはがれていたり、建付けが悪かったりしたら気付く。

そこに気付かない仕上がりこそが、努力の賜物なんだ。

つまり、努力とは気づかれたらいけないものなのかもしれない。

パンで言うなれば、味は美味しいのにパサパサしてたら、焼き方とか材料の問題かなって思ったり、美味しいを阻害する感情を与える仕上がりでは、完璧ではない。
色んな味が楽しめて、このもちっとした食感が好きで・・・とか、そこまでの完成品を届けるまでの裏の努力は気付かれることがない。

なぜなら、商品として粗が目立つものは出されることがないから比較できない。

努力とは、なんと悲しい物なのだろうか。

日の目を浴びないという自己満足の美学で終わるべきものなのだろうか。

そこに焦点を当てているのが、ドキュメンタリーなんだろうなと。

ん~、でもやっぱ、努力は見せないからかっこいいんだろうなという結論以外出てこないなあ。

これに関しては、ぼんやりと毎日考えてみたいと思います。

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