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わざわざ言葉にあらわすものの価値観

ことあるごとに自分は幸せなのだと他人に言いまくるご老人がいる。

好きなものを好きと言い、好きなことをしたら楽しかったと言い、自分の関心があるものや趣味について具体的に話す感情なら判る。
だがそのご老人はとにかく「幸せ」という語彙を多用して自分を説明する。

本当に幸福感に満ち足りてる人は、わざわざそれを「幸せ」と他人にアピールすることもない。
他人にどう見られようが自分が幸せであれば満足出来るのだから。

自分は幸せなのだと直截的な語彙を何度も何度も発せずにいられない無自覚な不安を打ち消すには、人に幸せだと知られなくても構わない満足を味わうべきだ。

このご老人は友人のことも、ただ「友達」とは言わずに、自分よりかなり年の若い異性の友達という言い方をする。それも必ず毎度。
そしてその友達とはカラダの関係は一切ないことを付け加える。
「友達」に価値を感じてるわけではなく、「若い」「異性」の部分に価値を置く言い方に無自覚なのが可笑しい。
そして普通ならば「友達」との性的関係の有無をわざわざ他人に話す必要もないのに、それを付け加えてしまうのは、「異性」を性的に意識してるからだ。
性的対象にはしてもらえなかったことを惨めだと思っていちいち言い訳してるのか、異性とセックスをしない関係を何か特別に凄いとでも捉えてるのか。

いまどき異性の友達など誰でも普通に持って当たり前で、いちいちその友情にセックスがあるか他人にアピールする人など見たことない。

自分が必死に他人にアピールするために使う言葉は、自分がその言葉をまとわなければ格好がつかないという焦りでもあろう。

幸せだといちいち言わなくても幸せに生きてる人は多く、友達は性別関係なく「友達」というシンプルな単語で充分な人も多い。

お疲れさんです。



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