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短編小説

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記事一覧

少女

 少女の影は、黒猫がしなやかに伸びて薄く曲線を描いているようだ。満月の出た明るい深夜に、黒猫の輪郭は仄かに輝いて際だって見える。彼は仕事疲れの溜まって潤んだ目で、暫くそこに倒れている黒猫の姿態をうっとりと眺めていた。
 それを見つけたのは、まさに彼が帰宅せんとするアパートの自室、そのドアの前だった。彼は商社に勤めている、若いながらも中堅社員の一人といったところだ。今夜は仕事が長引いたので、もう周り

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シャルルマーニュ裁き

【注意事項】
 この話は、落語『天狗裁き』を元にしています。

   ……

 ある昼下りだ。書斎の窓からは、赤い陽の光が木立を通して差している。しかしその光の届かぬところにある机に向かったまま、この屋敷の主は居眠りをしていた。
 書きかけの原稿には、「Bernhard Prinz von Bülow」と署名がしてあった。ベルンハルト・フォン・ビューローというのが、この屋敷の主の名前である。
 不

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村の神様

 我が家はわたしの祖父の代から養蜂を営んでおります。そのわたしの祖父が初めて養蜂を始めたのが、あの村です。なんでも、養蜂を始めるのに適した場所を探して、最初にたどり着いた場所が、あの村の山だったんだそうです。
 我が家は元々は借地を耕して年貢を納める小作農でした。ですが曾祖父が反骨精神の持ち主だったらしくて、一念発起して息子だけは何とか学を修めさせようと働きました。曾祖父の息子――わたしの祖父です

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本を売りに行く

 「この本を貰って欲しいんだ」
樺沢が指し示したのは、古びた、しかし美しい文学全集だ。それも一冊ではない。書籍の一冊一冊がかなり分厚いし、それぞれがみな函に入っている。タイトルは箔押しされていた。素人目にも結構いい装幀なのが分かる。だがいい装幀であるとは言え、惜しいことに、湿気にでもやられたのか、少し函が変色して、格好が悪くなっているものもあった。これらの文学全集は揃って購入され、仕舞われていたも

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