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紅い花とたけくらべ

つげ義春の『紅い花』は、『ねじ式』と並んでの代表作だが、『紅い花』を読む時に感じる叙情性、そして、哀しみというものは、どこから来るのだろうか。


『紅い花』は16ページほどの短編マンガで、一人の少女が山奥の茶屋でだるそうに過ごしている風景から始まる。そこに釣りが目当ての旅人の青年がやってきて、少女は「お客さん、寄っていきなせぇ」と彼を誘い、茶を出す。彼女の名前はキクチサヨコという。そこに軍帽をかぶったシンデンのマサジという少年がやってきて、旅人の青年をヤマメのいる川に案内してやる。

シンデンのマサジはキクチサヨコにちょっかいばかり出していて虐めているが、キクチサヨコは幼いマサジの恋心など気にも留めずに、自分の身体の中に起きる変化、初潮の辛さでダウナーになっている。

独特な方言が病みつきになる。作者が旅の最中で聞いた人々の言葉が物語を構成している。

この話は、心理は描かれていない。
ここでいう心理が描かれていない、というのはあくまでも、表面上では思ったことが描写されていない、ということで、今作においては、行間を読み、表情を読み、そして、間を読むことで、彼らの心情が浮かび上がるように描かれており、真の意味で心理が描かれている作品だ。

ツクツクボウシの鳴き声からこの物語は幕を開け、ツクツクボウシは前編に渡り、通奏低音として響いている。この山奥の茶屋は幻想の舞台のようで、旅人はここに紛れ込んだ第三者であるが、彼は二人を見ているだけである。物語は何かが成就するとか、そのような話ではない。ただ、関係性の変化と関係性、そして失われていく少年少女時代の儚さが描かれていている。
本来は旅人の青年は出すべきか、作者は迷ったとインタビューで明かしていたが、第三者の視点が入ることで、世界に膨らみが産まれた。
然し、それでもこれは夢の中の夏のようだ。
真夏の夜の夢ではない、真夏の昼下がりの夢である。

今作を読んでいると、樋口一葉の『たけくらべ』が想起させられる。『たけくらべ』もまた、少年少女の関係性と成長による変化が描かれている。
『たけくらべ』を読んでいるときも大変に切ない思いに囚われるが、思春期、というのは美の終る季節であるので、それが理由ではないか。

どちらも、男女の性差が描かれており、然し、その戸惑いというのは互いに変わらないものだ。
大人に成る、ということは成熟することで、フェアリー乃至はエンジェルとしての資格、翼をもがれてしまう、ということである。
大人になるのはつまらないことであり、それは『キテレツ大百科』の主題歌の『ボディーだけレディー』という名曲で高らかに歌われているではないないか。
なんか大人って、思ったほど楽しくない」と。

『紅い花』は、戸惑いも、郷愁にも満ちていて、思春の男女の隔てを見事に浮き彫りにしていて、それに適度に寄り添っている。
大槻ケンヂの『グミ・チョコレート・パイン』、という青春小説では、主人公はオナニーばかりして少年だが、彼はロック・バンドを作ろうと奔走する。それは、愛しのマドンナであるヒロインのかわいこちゃんに並ぶためであるが、グミ・チョコレート・パインのじゃんけん遊びのように、ヒロインはアイドルとして、女として、先へ先へと進んでしまう(無論、セックス方面もオナニーで完結する主人公とは異なり、早くに卒業してしまう。思春期には大変なことだが、大人になればチンカス以下の悩みである)

女性はリアリストであり、男性はロマンチストである。

男のロマンはしょうもない幻想でしかないが、然し、女の子にはいつまでも夢を見ているのである。
視線は交差することはないが、然し、この第三者の旅人の目から見たときに、彼らの視線が交差しないことに、たまらない切なさを感じるのだ。






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