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薔薇の踊子

1-6

 翌朝は晴れて、御心坂は化粧を落とした娘の美しさだった。恵は坂を上がりながら、通学中の娘たちの合間を縫って、進んでいく。心なしか、足取りが軽いのは、昨日吉村に言われた一言が理由かもしれない。下駄箱で、上履きに履き替えていると、
「おはよ。」
柚希はほほ笑んで、
「ねぇ。見て、これ。」
そう行って、鞄から本を取り出して、恵に見せた。恵が覗き込んで見てみると、それは音楽雑誌で、楽器を紹介している本のようだった。恵は雑誌と柚希の顔を交互に見比べて、
「ガールズバンド?」
柚希は頷いた。恵はどうしようかと思いながら、柚希から本を借りると、教室までの道のりを、ぱらぱらと捲りながら歩いた。そうしていると咳払いが聞こえて、振り向くと柳原シスターだった。怒られると思って、本を慌てて閉じると、
「小林さん、高瀬さんからお電話がありましたよ。今日の放課後、ホールで待っているとのことです。」
それだけ言うと、シスターは踵を返して行ってしまった。一安心したが、すぐに公武の顔を思い浮かんだ。
「放課後?ホールで何かあるの?」
席に着くなり、柚希は尋ねて、
「うーん、今度ね、秋の学祭でバレエを踊るのよ。」
そう言うなり、パンと掌を閉じて、柚希はほほ笑んでみせた。
「すごいわ。何をするの?高瀬さんってどんな方?」
「高瀬さんは宇賀神の生徒さん。演じるのは『ロミオとジュリエット』。」
恵はかすかにほほを紅潮させて、柚希の質問に答えた。自分がバレエを習っているのを知っている相手とはいえ、面と聞かれて褒められるのはこそばゆく、快感だった。
「宇賀神の人?じゃあ男子?」
「宇賀神に女子はいないもの。」
「へぇ?かっこいいの?」
柚希は興味津々で尋ねるが、恵はかぶりを振った。そうして、
「だから、練習で忙しいのよ。ごめん、柚希、ガールズバンドできなくなったかも。」
「いいわ。恵、薙刀かドラムか、どうなるか思ったけど、やっぱりあなたにはバレエなのね。」
「どうかしら。まぁ、声をかけてもらったからには頑張りたいけど。」
「大丈夫。ローザンヌを受けるくらいなんだもの。バンドの席は空けておくわ。ドラムは恵の担当だから。」
バレエを嗜んだことのない柚希ですら、ローザンヌのことは知っている。恵がビデオを出す前に話してしまったからだが、その権威は調べたようで、恵が落ちたときには、柚希は随分と残念がったものだった。
「ありがとう。じゃあ、私が来るまでにギターの練習をしておいて。」
「学祭までしかやらないの?」
当然、バレエに戻るものと思えて、柚希は驚いて声を上げた。
「一応そのつもり。だって、私には才能がないもの。」
そう言うと、柚希は笑って、
「恵、ローザンヌ落ちたときもそんなことばかり言っていたわ。そんなことないよ。恵が踊っているの、私何度も見たことあるもの。本当に、白鳥のようだったわ。」
白鳥と言われて、不意を突かれたのか、恵の体は固まった。そうして、
「白鳥だなんて買いかぶり。お姉ちゃんよ。白鳥は。教室の今年の公演ね、『白鳥の湖』なのよ。それで、オデットに選ばれたの。」
「主役の白鳥?」
恵が頷くと、柚希はため息をついた。
「絵里奈さん、きれいだもの。」
「踊りもね、才能のあるって、ああ、こういうもんかって思うよ。納得しちゃうんだよね。」
恵がそう言うと、柚希はかぶりを振って、
「でも、恵も本当に、白鳥みたいに見えたわ。嘘じゃないわ。白鳥だけじゃないわ。蝶々にも猫にも見えたわ。」
恵は思わずほほ笑んで、柚希のほほを両の掌で包むと、彼女の首筋にそっと脣を近づけて、感謝の言葉をささやいた。

 放課後に、ホールに公武は一人座っていた。いや、今日は他に先客があって、何人かの女子生徒が机に向かって勉強をしている。しかし、彼女たちの視線は、避けようにも公武に注がれている。それは、宇賀神の制服を着ているせいもあったかもしれないが、公武の美貌もそれに一役買っているように思える。遠目で見ても、中性的な顔立ちで、しかし、男性が濃い。化粧をすれば、まさしく薔薇の精だろう。朱い脣が、時折開いては、何かを呟くようだ。そうして、公武は視線を落として、手元の本を読んでいる。分厚い本で、恵は気になって、覗き込むように公武に近づいた。ふいに公武は顔を上げて、恵を認めると、本をぱたりと閉じた。本のタイトルは、『不謹慎な宝石』とあった。緑色の革表紙の本で、恵は見たことも聞いたこともないタイトルだった。
「待ってたよ。」
「ねぇ、LINE交換しようよ。連絡取れないから、どうしようかと思ってたの。シスターに聞かなきゃわからなかったわ。」
公武は何度か頷いて、立ち上がると、すぐに恵の背丈を追い越した。白いシャツが匂って、恵の胸に迫った。
「何かあればここに来ればいいと思ったんだ。」
「みんなの視線があるわ。」
「ここで公演することを、シスターの許可を頂いたんだ。」
公武は壁画に近づいて、歩いている人々を見上げた。話を聞いているのかしらと、恵には思えた。
「でもここで練習するのは恥ずかしいわ。それに、みんなの邪魔になるし。」
恵が言うと、公武は考えるようになって、
「わかっている。僕の家でやろう。」
「あなたの家?」
恵がもう少し歳を重ねていたのならば、警戒を強めたのだろうが、今は好奇心が打ち勝って、気付くとホールを出ていて、御心坂を降っていた。制服のズボンのポケットに手を突っ込んだまま、無言で前を行く公武は、恵には不可思議だった。昨日までの饒舌さは消えて、急に謎めきだした。もとより謎めいてはいたが、その心がまるで読めない。しばらく歩いていると、恵がいつも見ていた屋敷が木々の隙間から見える。公武はそっと指先を伸ばして、
「あそこが僕の家だ。」
それは、恵や絵里奈がアステカの舟と呼んでいる、アステカ文明の遺跡を思わせるお屋敷だった。御心坂を下りて、恵の自宅へ向かう道とは反対の細道を行くと、急な階段が現れて、その延々と続く石段を上がっていくと、急に視界が開けて、広い坂道に出る。そうして、その坂道を上がって行くと、あのお屋敷が現れた。坂の上にあるからか、それとも敷地が広すぎるからか、全容が掴めない。そうして、古びたそのお屋敷は、淡い褐色の壁面に日に受けて、静かに佇んでいた。門を抜けて入ると、咲き始めた紫陽花が揺れている。恵は何も言えずに、ただ公武の後ろを着いていった。元々静かな住宅街だが、門を抜けたこの屋敷は、一層に森閑としている。何処かで潺が聞こえてきたが、恵の幻聴かもしれない。そうして、歩いているうちに、ふいに、昔ここを訪れたような、デ・ジャ・ヴュめいた感覚に包まれる。
 玄関から中に入ると、薄紅色の絨毯が敷かれていて、幾何学的に築かれた開口部から差す日差しに、幾本もの光の線が敷かれている。それは、階段を上がりきった先の長い廊下も同じで、光が静かに、均等に横たわっている。均整の取れた美しさだった。そうして、窓外から外を覗いてみると、遠くに蘆屋の町並みが広がっている。恵の家も高台にあるから、ベランダからの景色は綺麗だけれど、ここはまるで高層ビルからの眺めのように、何に遮られることもなく、ただただ景色が広がっている。
 公武は光の廊下を何も言うこともなく進んでいく。人の気配がないように思えるほど、音がない。そうして、公武の背に着いていくうちに、ふと立ち止まっては屋敷の装飾や窓、開口部を見ては、明日塔にも通じる、幾何学的な模様の美しさに、共通点を見出していた。
「明日塔の校舎に似ているわ。」
「そうだね。同じ建築家の仕事だから。」
恵は驚いて、
「やっぱり。似ているわ。だからかな、昔来たことがあるように、不思議に思えたの。この不思議な模様が、そう思わせるかしら。ねぇ、なんて建築家の人?」
「フランク・ロイド・ライト。」
「聞いたことない。」
「知らない?アメリカの建築家。世界の三大建築家の一人だって、言われている。落水荘とかね。」
恵は小首を傾げた。
「アメリカのペンシルヴァニアにあるんだよ。森の中の一軒家。小さな滝の上に作られた、美しい建物だよ。一度この目で見てみたいね。」
「その建築家がこのお屋敷を作ったの?」
「君の通う学校もね。だから僕はあそこが好きなのかもしれない。」
「建築が好きなの?」
「そうだね。踊るのと、建築が好きだね。美しいものが好きなんだろうね。」
「他には?どんな建築が好きなの?」
「東京ステーションホテル。」
「ああ、見た事あるわ。レンガのかわいい、東京駅ね。」
「僕も見たことしかないんだ。一度行ってみたいね。」
「東京に行ったことはないの?」
恵が尋ねると、公武は突き当たりの部屋に入って、そこに腰を下ろした。ここは公武の部屋なのだろうか、たくさんの人形が置かれている、奇妙な感覚の場所だった。いくつもの写真が貼られていて、それは全てモノクロで、ポーズを取っている。絵里奈の部屋に飾られた、『薔薇の精』のニジンスキーを思い出した。しかし、ここにはニジンスキーの写真はどこにもない。恵は合点がいったように、ぽつりと呟いた。
「バレエ・リュス?」
公武は頷いた。そうして、ここにある写真たちを懐かしそうに目を細めて見つめた。
「僕の素体、ああ、複製人間の元になった人間を、素体と言うんだけれど、僕の素体はワツラフ・ニジンスキーっていうのは、知っているだろう?」
恵は頷いた。絵里奈から聞いたと思ったのか、見たらもうわかると思ったのか、そのどちらかはわからない。
「そのニジンスキーの、バレエ・リュスの公演の写真だよ。」
幾人かの、人形めいた写真がある。『ぺトルーシュカ』だと、すぐにわかった。恵が指さすと、
「『ぺトルーシュカ』ね。」
公武は頷いた。
「ニジンスキーの人形に、タマーラ・カルサヴィナのバレリーナ。二人はバレエ・リュスではよく組んでいたそうだね。『薔薇の精』も、この二人だ。」
『薔薇の精』と聞いて、恵はあっと声をあげて、
「そうね、ねぇ、今回の、あなたの『ロミオとジュリエット』も、二人のパ・ド・ドゥよね。『薔薇の精』に似てるわね。」
恵がそう言ってほほ笑むと、公武も笑って、
「そうだね。だから、僕は新しいロミオとジュリエットの、二人だけの若い火を、踊りで見せたいと思うんだよ。舞台だって、そんな過剰な装飾はいらないんだ。ダンサーが二人いればいいんだ。それで、あの空間だね。」
強くそう言うと、公武は立ち上がって、くるりと回って見せた。それがあまりにも軽やかだったから、恵は思わずぱちぱちと手を叩いて、今度は自分がくるりと回った。
「高瀬さんは、どんな作品が好きなの?」
恵が尋ねると、公武は宙を見つめて、考える素振りをした。
「そうだね。振付が理解できないようなものが気になるかな。」
「例えば?」
「『春の祭典』。」
「ニジンスキーね。」
「うん。だから、僕にも彼が見ているものが、体の中にあるのかもしれない。」
そう言われて、恵ははっと、彼が複製人間で、まだ五つなのだということに思い当たる。まだ五つには見えない。それほど、制服の上からでも、公武の身体の美しさが見えてくる。男性ダンサーの身体は、パ・ド・ドゥを踊るとき、女性ダンサーの身体を支えるべく、筋肉が鋼のようでもあり、猛獣のようにしなやかである。そうして、公武はもうその片鱗があった。女と男の身体の際が、化学反応を起こして、あのような踊りの交感になるのだと、そうレッスン教室の国元先生に言われたことを、恵は思い出していた。国元はプロのダンサーで、海外のバレエ団のいくつもに在籍したことがあるからか、クラシックだけはなく、コンテンポラリーの素養が高かった。これからは、今まで以上にコンテンポラリーの比重が大きくなる。クラシックとコンテンポラリー、モダンダンスはその両者が組み合わさって、また深化していく。絵里奈は、クラシックの雄である。そうして、女の身体は美しく生い立って、白鳥になった。白鳥のしなやかさ、女らしさは、彼女が得るべくして得た才能であろう。しかし、恵は逆である。かすかに女のしるしが膨らんで、円みを帯びた身体ではあるが、絵里奈とは違う。まだ初めてもない。それならば、私はコンテンポラリーダンサーとして、その技能が花ひらくのであろうか。
 そんなことを考えるうち、
「他には、モーリス・ベジャールも好きだ。彼の『春の祭典』は、本当に性的な祭りのようで……。」
「『ボレロ』ね。」
「ベジャールは、コンテの有り様すら変えてしまったように思える。まぁそれも、ジョルジュ・ドンがいたからかもしれないけれど……。」
「昔のコリオグラファーが好きなのね。」
「今だっているよ。例えばマシュー・ボーン。彼の『白鳥の湖』はもう古典だね。」
「男の人だけの『白鳥の湖』ね。」
公武は頷いた。マシュー・ボーンの『白鳥の湖』は一九九五年の初演で、もう四半世紀も前の作品だが、男性が白鳥を舞う。黒鳥も男性だ。同性愛者のマシュー・ボーンだからこそ生まれ来る感覚かもしれないが、恵は写真でしか見たことがない。しかし、その写真の白鳥たちは、女性の白鳥が纏う純白のチュチュとは違い、上半身は裸身で、代わりに足に純白の羽毛に覆われた衣装を纏い、裸足である。力強い筋肉が、鋼の筋肉が弓のしなりで、躍動する。
 野生の力に溢れた舞台で、観るものを圧倒させる。男の野生が、溢れていて、そこに女の影はない。
「映画の『リトル・ダンサー』で、主人公のジェイミー・ベルが、大人になって踊るのが、マシュー・ボーンの『白鳥の湖』だね。彼の作品は、作品の解釈や設定をごろりと変えるだろう。あれが面白いね。そして、性的でもあるから。」
性的という言葉に、恵はかすかに眉を顰めたが、しかし、その性的な野生が、彼の作品の肝であることは知っていたから、静かに頷いて見せた。
「全幕ものの作品を、僕は考えていないんだ。少なくともこの公演ではね。長く、大きな作品である必要はないと思っているんだよ。」
「短いお話にするの?」
「うーん。そうだなぁ。短いというよりも、一つの場面を、ただ踊りたいんだ。『薔薇の精』だって、ただ短いパ・ド・トゥだろう。」
「女の子の夢だもの。」
「そう。だから今度は若い男女の夢だよ。」
そう言うと、公武は立ち上がって、恵の手を握ると、歩き出した。しかし、その足はステップを踏んでいる。短い階段を下りると、畳敷きの、二十畳ほどの広間だった。畳と、このアステカの遺跡はあまりにも離れているけれど、落ち着いていて、美しい調和だった。しかし、畳はその三分の一ほどで、改築したのだろうか、残りはフローリングになっている。
 やわらかい畳の感触に恵は思わず、足で軽くステップを踏んで、靴下を浮かせた。その恵の動きに呼応して、公武は手を上げると、恵はそのままくるくると、彼の手を掴んだまま回転し、離れ際に、四回のピルエットをしてみせた。何も言わないまま、公武は急に恵をリフトすると、そのまま床に下ろした。そうして、そのままソロのように、激しく跳躍すると、恵を追うように、ゆっくりと回りながら近づいてくる。手の先をひらひらと動かして、恵を捕まえようとしているかのようだ。アダージョにしては動きは速い上、予測も付かない動きだ。行ったり来たり、近づいたり離れたり。公武が何を考えているのか、恵にはわからない。しかし、自分を捕まえようとしているのは、なんとなくわかる。そうして、恵が離れようとすると、公武は踊りをやめた。
「どうしたの?」
「君は僕から逃げようとしたろ。」
「ええ。だって、あなたは私を捕まえようとしたでしょう。」
「そうだね。でも、君はきれいに逃げようとしただろう。白鳥のように、美しい鳥のように逃げようとしただろう。」
まるで、自分は白鳥ではないと言われたようで、恵は少しかっと来て、脣を尖らせた。
「白鳥には似つかないって言うのね。」
「ああ。」
真っ直ぐにそう言われて、恵は頭に血が上った。恥ずかしさで、目の前が赤くなった。しかし、公武は表情を変えずに、
「さっき、マシュー・ボーンの話をしただろう。」
公武は腕を組んで、言葉を探すように、恵の目を真っ直ぐに見ながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。そうして、黒い瞳の中の宇宙に、かすかに青や緑の宝石が浮かぶのが見えて、遠いロシアの血が公武を貫いているのが、恵の目に見えた。
「彼の作品は、性的であるって行ったろう。乱暴で、凶暴で性的だ。野生の力だね。」
恵の思っていた、野生という言葉が、公武の口から零れて、恵はかすかに冷静になった。それは、公武の目の沈んだ燦めきに見つめられたのも、関係があるのかもしれない。
「野生と性。そんなジュリエットを君に踊って欲しいんだ。十四歳の、内からの炎をね。君は山猫みたいだろう。そうしてときどき、蝶々みたいだ。」
公武の言葉は、とりとめもないから、恵にはよく理解できなかった。ただ、何か褒められているのはなんとなくわかって、要するに、彼の欲しい踊りを見せろということかと、合点がいった。山猫と蝶々なんて、初めて言われたが、どちらかというと、蝶々は、山猫にじゃれて遊ばれる側だろう。
「ねぇ、あなたの言いたい事、なんとなくしかわからないわ。ちゃんと振付は考えているの?」
そう言われて、公武はまた宙を見つめた。何かを考えているのか、それとも何も考えていないのか、そのどちらとも言えそうな目端だった。
「なんとなく、イメージはあって、それを言葉で伝えようとすると、とても難しいな。」
「じゃあ、踊って見せて。何も言われずに、あなたの踊りについていくなんて、それこそ難しいわよ。」
公武はふいに、ふふと声に出してほほ笑んで、
「色々踊ってみよう。そうしていく内に、形になりそうな気がするよ。」
「呆れたわ。もう振付を考えているものとばかり。」
「僕はまだ君を知らないからね。とにかくまずは、踊ってみよう。そうしたら、君がわかるし、君にも僕がわかるだろう。」
公武は、また何食わぬ顔で、フローリングの上で跳躍をしてみせた。高い。恵は驚いた。一瞬、本当に空を飛んだのかと思えるほど、高く飛んだ。そうして、空中で止まっているように思えた。翼でも生えているのかと、鳥なのかと、そのように思えた。恵は、このように高く飛び立てる男性ダンサーには、初めて会った。プロの吉村でも、彼程の跳躍はない。それも、特に勢いを付けるわけでもないのに、あのように飛べるのは、何か特別なものがあるとしか思えない。
 そうして、その跳躍を皮切りに、彼は目をゆっくりと伏せて、踊り始めた。グラン・ジュッテ・アン・トゥールナン。彼があの跳躍で、ここを飛び回ると、すぐに一周してしまって、狭い小宇宙を飛ぶ小舟のように、勢いがある。そうして、パの連続から、トゥール・ザン・レール。全てが大技で、恵には公武が実際の何倍もの大きさに思える。公武は息つく間もなく、だんだんとスピードを増していって、それは何もかも飲み込む炎に思えるけれども、しかし、伏し目がちの公武の目は冷たい色合いで、氷めいても見える。踊り終えて、公武が一礼をすると、彼はしゃがみ込んで、
「次は君だよ。」
「大技が好きなの?」
「得意なだけ。」
「これはなあに?自己紹介?」
「そんなもんだよ。でも、僕のロミオはこんな感じだよ。檻の中で飼われたライオンだ。檻を食い破って、目の前のジュリエットを抱きしめて食べてしまいたい。」
そう言われて、恵は少し身構えて、きっと公武を見つめた。そうして目を閉じると、プロコフィエフが聞こえてくる。そうして、目を開けると、恵は高くジャンプした。パッセとグラン・パ・ド・シャの繰り返し。恵はキトリのヴァリエーションをイメージした。
 可憐な娘のジュリエット、十四歳。それよりも、同い年ではあるけれども、花やかな恋心はまだ知らない、これを恋だと気付かない十四歳の踊り。そうして、観ているのは公武だけだから、思わず右手には空想の扇、左手は山猫の手付きをしてみせる。これは、恵のお遊びだ。公武だって遊んでいるように踊っていた。だから、恵はジュリエットの気持ちになって、そうして、遊んでみることにした。火のように熱い恋を見つけて、扇で顔を隠しては、山猫の手でそれを捕まえようとする。パッセを繰り返して、だんだん気持ちが昂ぶって、そうして、火の花が回るように、くるくるとピルエットを繰り返す。そうすると、急に公武が入ってきて、彼女をリフトした。先程も思ったけれど、彼の筋肉の強さに驚きながら、彼に星空に連れて行かれそうになって、恵は思わず声が出そうになる。そうして、天井を見上げると、思っているよりも近い。
 着地をすると、今度は公武が手を差しのべて、くるくると恵は花束のように回った。もう一度公武に引き寄せられて、彼の顔が近づくと、その目の宇宙の中に、黒い星が映った。自分の目だとは気付くまでの瞬間、永遠だと思えるほどの時間だった。
 二時間ほど、二人は様々な技を見せ合って、互いの呼吸を交感したけれど、恵は、公武が素晴らしいダンサーであることに、改めて気付かされた。簡単に、自分の動きに合わせてくるし、大抵の技なら、何度でも繰り返しできる。そうして、恵を支えるその力は、十六歳には思えない。

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