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天才と凡才

天才と凡人の対比、というのは創作物でも好まれて書かれる話である。
天才、を辞書で紐解くと、生まれつき備わっているきわめて優れた才能、とあり、凡人、を辞書で紐解くと、特に長所のない、普通の人間、とある。
普通、を辞書で紐解くと、特に変わっていない、ありふれた、とある。

○○の天才、というのは、様々なジャンルの創作物で主人公に立ちはだかる。そして、大抵は変人乃至は変わった人物として描かれる、類型に落ちたパターンが多い。
変わった喋り方や、突拍子もないことをやる、奇抜な言動etc…。
このような人物が、主人公と出会い、そして、ほとんどの作品は主人公に感化される。主人公も同様に天才である場合もあるし、凡人である場合もある。

まず、ここに、読者一般の天才という抽象への憧れの偶像化、加えて凡人である主人公への自己投影が見受けられる。
凡人でも頑張ったら……という、それはある種甘いカタルシスの可能性に満ち満ちているが、まずはこれが一番の誤謬であって、実際には天才とやり合うからには、主人公も又それに親しい才覚があるわけである。俺は凡人なんだ、といい主人公が泣くのは、ナルシズムでしかない。

これは、誰しもが持つ若き頃の万能感の延長線上で、自身は天才ではないことは既に自覚しているが、そのような人物に肉薄或いは、注目されるに値する人物だと思いたい願望の表れである。

例えば、『バクマン』の二人は紛れもなく天才のわけだが、ここに更に突出した、ステレオタイプの吾妻エイジを置くことで、読者は彼らに親近感を抱く。
実際には、コネがあり、道具もあり、そして、努力をしたとはいえ、直様週間少年ジャンプの連載を勝ち取り、人気作も物にするわけである。
これが、小説ならば、持ち込みNGの大手出版社に突撃で持ち込んだら、読んだ編集者が「すごいな……。」と連絡をしてきて、早速担当が付き、書き直した作品が新人賞を取り、何作か書けばベストセラーを出したようなもので、彼らもまた天才である。

現実に天才と言われる者は、少なくとも何かしらの功績を残さない限りは、なかなか認定され得ないものだ。
そして、ことスポーツや盤上競技、歌手などの測りやすい天才、或いは創作のクリエイトの天才などは、これもまた指標を出しやすいが、それ以外、誰も羨まない部分での天才的な才能の持ち主は、軽んじられる傾向もある。

天才の持つ重要性とは、注目されるべき場所、お金が発生する場所、
そして、自尊心が満たされる、承認欲求が満たされる場所で拡大する傾向がある。特に、創作系ではその傾向は更に強力である。

先に書いたように、漫画や小説などの作品というものは、天才の定義をしやすい場のようにも思えるが、実際はどうなのだろうか。
極めて優れた人物が書く(描く)作品を、凡人が測り得ない場合もあるだろう。そういうのは絵画などに多いように思えるし、科学や哲学であれば、凡人には理解もできないだろう。天才だと教えられなければ認識もできない。

天才が描かれるのは、天才を主人公と相対化して、カタルシスを得るための装置(それが喜劇になろうと悲劇になろうとも)で、オナニズム的なマシーンでしかない。
恐らくは、本当の天才というのは、そういったことに興味がないだろう。
彼らは、自分に与えられた場所で最高の結果を出そうと努力するだけで、実際に外的に、或いは内的に成果をあげるのだから。

才能をテーマにした作品は多い。多いけれども、凡人は天才に勝って、何を得たいのだろうか。
天才に勝ち、自分の方が上だと誇示したところで、ああ、あなたも天才ですね、そう言われて終わりである。
特に、クリエイターを題材にした場合、作品そのものは置いてきぼりで、俺が、私が、認められたい、という承認欲求に寄っていく。
所詮は、猿山で猿が争うだけのから騒ぎであって、原始のオス・メスの頃から変わらない、マウント合戦である。
そんなことよりも、バスで困っている人に席を譲る方が、よほど人間として進化している。

それらを戯画化した作品には連載中止になった『アクタージュ』や画家とデザイナーの『左ききのエレン』、小説を題材にしているのならば『響〜小説家になる方法〜』などもある。

けれども、天才を知りたいのならば、恐らくは天才と言われる人物の書いた本や、絵を見る、これが一番であろう。それ以外のカリカチュアされたものは、全て凡人の慰めにしかならないし、そこには本当の天才は幻でしかおらず、自尊心だけが渦巻いているのだ。




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