72ボリジ

ドラマ『心の傷を癒すということ』で印象的だったシーン。


とても25年前のこととは思えない

尾高さんのドラマが終わったので、そろそろ同じ柄本佑さんが主演をつとめたドラマ『心の傷を癒すということ』について書き記しておこう。

ちょっと真面目な話になっちゃうけど(笑)。
(以下、ドラマのネタバレが含まれます)

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全4話の短いドラマシリーズだったのが残念なほど、人間の心の部分が丁寧に描かれていた。

このドラマは、1995年の阪神・淡路大震災発生時に、被災者の心に寄り添い続けた精神科医・安克昌さんの実話を基にしたフィクションだ。

安先生と父親との確執、精神科医はときに患者さんを見守ることしかできないこと、自身が病に倒れてからのことなど、4話の中にぎゅっと詰め込まれている。

私が大地震を経験するずっと前の話なのに、特に人間同士の関わり方は自分の体験と被っていることが多かった。ということは、10年、20年経っても、もしかすると人は学ばないのかもしれない。実際、自分も経験しなかったらスルーしていただろう。

ドラマの中で、印象に残っているシーンについて触れてみる。

リーダー的な存在の校長先生が、ある日壊れた

安先生は自身も被災したのに、子供や家のことを奥さんに託し、被災者の心にやさしく寄り添った。その中で、地震ごっこをする子どもたち、多重人格の女性など、さまざまな人たちと出会う。ドラマでは、そこに避難所として使われた小学校の校長先生が登場する。

校長先生は、避難所となった小学校を地域住民とともに整備し、問題が起きれば常に対応した。「避難所にはこういうリーダー的な人が必要」と思わせる登場の仕方。でも第3話では、そんな彼に異変が起きる。

校長先生は、仮設住宅に入ることができてからは、そこから学校へ通ってきた。子どもの夜泣きを詫びる隣人の女性にも、やさしく声をかける。張りつめた空気の中で、毎日自分ができることを誠実にやってきたのだ、きっと。

でも仮設での暮らしが長くなるにつれ、絶望が行き来するようになる。責任感の強い校長先生が、落ち着きを取り戻しつつある住民たちを見届けて、ふと自身のことを考える。

彼の異変に気づいて声をかけた安先生。でも何も話してくれない。
「僕に言いたくないなら、誰か信頼できる人に話してくださいね」。
どこまでも寄り添う安先生。このドラマでも、柄本さんの声は魅力的だった。

震災で妻を亡くしてひとり暮らしの校長先生は、遠方に住んでいるらしい娘に「この間買うの忘れて米がなくなった事があって。もうこのまま死んでもいいかなって。米残して死んだら、もったいないって思たんかな」と、電話口で力なく話す。

それを娘は、「もう震災から2年も経ってるんよ。そろそろ前を向かんと」と早口で切り返す。このシーンは辛かった。人によって、復興に向かうはやさは違う。経過年数ではないのだ。

少し戻るが、第2話で、安先生の奥さんが大阪に住む先生の実家に身を寄せていた際、「(神戸の人たちは)バチ当たったんやと思うわ」と公園で近所の人に言われたシーンも辛かった。

これらのことが、実際私の周りでも起きたことだったから。


そして校長先生の家の米びつが、ついに空になった。死にたくなる校長先生。この役を演じたのは、吉本新喜劇でお馴染みの内場勝則さん。喜劇役者が、人を笑わせずに演じる。悲観をより深刻に見せた。息をのむリアル感だった。

そこへ、以前子どもの夜泣きのことで会話した隣人の女性が、「イカナゴの佃煮」のお裾分けを持ってやって来る。ハッと我に返る校長先生。偶然だったけれど必然の小さな優しさが、彼を救ったのだ。

たったひと言が、人を救うこともある。

私が救われた、電話口でのひと言

4年前の春、ひとりで住んでいたアパートの被害は少なかった。割れたり壊れたりしたものがあったけれど、しっちゃかめっちゃかになった室内を片づけて、水、ガス、電気が使えるようになれば住めるといった状況だった。

「自分はこれだけで済んだのだから、愚痴を言ってはいけない」
「自分は死ななかったのだから、文句を言ってはいけない」
「もっともっと辛い人はたくさんいるのだから」
そう、自分に言い聞かせた。

余震で眠れず、地震直後から車中泊。それでもほとんど眠れなかった。余震の少ないエリアに住む知人が声をかけてくれ、彼らの家に身を寄せることに。約2週間、その家から仕事へ向かった。職場まではそこから車で片道1時間のはずが、毎日渋滞で3時間半かかった。往復7時間を通勤に費やした。ゴールデンウィークにようやく、アパートの片づけに戻った。

温かな心に助けられたことはたくさんあった。ただ、不測の事態のとき、真の人の姿を見る。突き上げるような余震は1年以上毎日のように続いておそろしかったけれど、人の本性を知る方がよっぽどおそろしいと思ったことも事実だ。

数ヵ月ぶりに、すぐ近くに三世代で住む友達に会った。2人共通だったのは、「この数ヵ月、仕事以外でどんな風に生活したかの記憶がほとんど無い」ということだった。気持ちが張りつめたまま、一日一日を生活していたせいだろうか。完全に疲弊していた。


「ああ、今日は一日大きな余震が無かったなあ」と思ったら、またドンッと大地の下から突き上げてくる。そうなるたびに、
「気を緩めてはいけない」
「自分は住まいがあるだけでも、ありがたいと思わなくてはいけない」
「もっともっと辛い人はたくさんいるのだから」
そう、また言い聞かせた。


ある日、東京の知人から電話がきた。地震の翌日、メールで「生きてる。大丈夫」とだけ連絡し、以降も時折メールで状況を報告していた。

久しぶりに電話で会話すると、彼女はおもむろに
「辛いときは泣いていいし、文句言いたい気持ちをぶつけてきてもいいんだから。頼ってくれていいんだからね」と言ったのだ。

張りつめていた気持ちが一気に決壊した。
ああ、私、泣いてもよかったのか。
文句を言ってもよかったのか。
辛いと叫んでもよかったのか。

それまでもちろん、県外の友達や家族から心配のメールをたくさんもらったし、ボランティア活動でいち早くこちらに入るという知人から「必要なものを持って行くので足りないものを教えて」と連絡をもらったし、自分は恵まれていた。ありがたかった。

でも、「大丈夫」ということばを繰り返した。

それは「自分は住まいがあるだけでも、ありがたいと思わなくてはいけない」「もっともっと辛い人はたくさんいるのだから」という、あの呪文のようなことばが、常に胸にあったからだと気づいた。

おそらく、そういう人はたくさんいたはずだ。

みんな、大丈夫じゃなかったのだ。
そして大丈夫じゃないということは、
別に“弱いから”ということじゃなかったのだ。
大人でもこうなのだから、子どもはなおさらだ。

人によって感じ方は異なる。心の傷は見た目で判断できない。

*****
ドラマでの繊細な部分の描写は難しかったに違いない。でもそこに安先生の思いと、それをドラマにした人たちの気持ちを感じた。

先生が生きていたら、今の日本をどう思っただろうか。

本当にすばらしいドラマだった。


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