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フィクションを「ケア」することは可能か(1)

フィクションの感触を求めて(第二回) 勝田悠紀

0.はじめに

 「ケア」という言葉を頻繁に目にするようになった。さまざまな文脈でこの概念が取り上げられ、語られている。
 そのきっかけのひとつとなったのが、昨年夏に刊行され、すでにこの媒体でも取り上げられている、小川公代の『ケアの倫理とエンパワメント』(注1)である。タイトルにある「ケアの倫理」は、義務論や帰結主義といった既存の学説にかわる倫理観で、1982年にキャロル・ギリガン『もうひとつの声』によって提唱された。『ケアの倫理』はこれに続く一連の議論を、文芸批評に応用したものである。
 一口に「ケア」と言っても、具体的な介護実践から抽象度の高い倫理学まで、セルフケアから、他者との関係、さらには社会制度を考えるものまで、その指し示す範囲はじつに幅広いのだが、「ケアの倫理」に絞ってもなお、その目指すところはさまざまである。そもそもギリガンは心理学者で、道徳性の発達に関する理論がその出発点だった。日本語での代表的な「ケアの倫理」論者である岡野八代は、リベラリズムおよび既存のフェミニズムの根元にある公私二元論を批判することで、国際平和までをふくむ射程のひろい政治学を構想している。『鬼滅の刃』人気の理由が主人公の「ケアの倫理」によって説明されたかと思えば(注2)、最近翻訳の出たマイケル・スロートの『ケアの倫理と共感』は「ケアの倫理」が道徳の包括的な基準になりうることを理屈っぽく証明する硬派な倫理学の本だった(注3)。
 そのなかで小川は、ギリガンや岡野らの議論を参照し、コロナ以降の社会状況にも言及しつつ、同時にそれが文学研究、文学批評の本であることを強調している。「とりわけ文学の領域で論じられてきた自己や主体のイメージ、あるいは自己と他者の関係性をどう捉えるかという問題」と結びつく「ケアの倫理」を、「文学研究者の立場から考察する」(No.2407-13)という小川は、実際さまざまな文学作品を読解しながら、議論を進めている。 

 小川の議論を、文芸批評、あるいはいわゆる批評理論の流れのなかに置いたとき、背景として三つの文脈を考えてみることができる。ひとつ目は、フェミニズム批評を中心とする1970年代以来の批判理論。そもそもギリガンの『もうひとつの声』自体が、共同研究者だったローレンス・コールバーグの理論のジェンダー的な偏りを、フェミニズム的な観点から批判するものだった。文学批評は隣接領域の知見を積極的に取り入れることで多様な成果を生んできたが、心理学や倫理学におけるフェミニズム的な展開の、文学への応用を試みているという点で、小川の議論は一連の批判理論の延長線上にあるといえる。
 しかし同時に、そうした言説が大枠において共有しているある種の批判性との距離において、『ケアの倫理』はそれとは別のモードを備えている。小川の筆致はむしろ、ポスト批判的なものを強く感じさせるのである。例えばこの本のなかで肯定的に打ち出されているキーワードのいくつか——「共感」、「想像力」、そもそも「ケア」自体——は、従来ひとまず疑ってかかるべきとされることの多いものだった。「共感」は「いいね!」としてたやすく資本に利用されてしまうし、「配慮、愛情、思いやり」(No. 2420)を軸とするソフトな「ケア」は、そのポジティヴなイメージにつけこまれいくらでもやりがい搾取や感情労働となりうる。他者の気持ちを「想像」することは原理的に困難であり、その困難さと向き合うことの方がはるかに誠実で重要である——。こうした価値観の転換は作品を扱う手つきにも表れていて、一般に批判的な批評が見かけの善意の欺瞞を暴こうとするものだとすると、小川はむしろ作品の善意を積極的に評価しようとする(注4)。
 この点とも関連する三つ目の文脈として、これは文学批評と特権的な結びつきがあるというわけではないのだが、ここ二年ほどの新型コロナウイルス感染症の流行が、無視できない背景としてあると思う。『ケアの倫理』の書評を覗いてみると、枕詞のように感染症や医療への言及がなされていることに気がつく。本の中でもコロナ禍への言及があり、医療の問題がかつてなく人々の意識にのぼる状況のなかで、「ケア」という主題は感染症対応と関係づけて読まれやすかっただろう。
 時折指摘されていることだが、コロナ禍は従来の言論の構図を反転させてしまったようなところがある。すこし前まで、路上の権利を積極的に語っていたのはリベラルの側だったが、感染初期に「ステイ・アット・ホーム」批判のデモで目立っていたのは、極右を含む保守派の人びとだった。哲学者のジョルジョ・アガンベンは2020年2月以降、従来のイメージから微塵も外れることなく、生政治的な例外状態の常態化にたいして警鐘を鳴らしたが、それまでの受容のされ方からすれば信じられないほどに、彼の主張は黙殺されるか嘲笑された(注5)。
 個人的なことをいえば、2016年の夏に国会前にいた経験があり、大学の講義で生政治がいかに問題かを教わったつもりでいるぼくは、何が正しいか以前に、そもそもこの急速な変化(とぼくには映るもの)はどういうわけなのかと、当惑している部類の人間である。各論者や社会に、どれほど「あえて」の意識があるのかはわからない。しかし出てきたものを見る限り、こうしたポスト批判的・ポストコロナ的な展開は、それまでの「常識」をあたかも忘れたかのようにくるっと反転させてしまう点において、連続的な関係にあるように感じられる。
 難しいことは確かなのだ。ポストクリティーク論の代表的論者リタ・フェルスキは『クリティークの限界』(注6)で、従来の「クリティーク」の特性と問題点を鮮やかに分析しながら、処方箋となると、「ディタッチメント」から「アタッチメント」へ、距離から近さへという、単純なひっくり返し以上のものを提案できなかった。しかしそれでは不十分なことは明らかだ。距離と近さが反転の関係になってしまうその状況自体を問題にするための入り口として、「フィクション」を考えている。 

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