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文学は誰に向けて書かれているのか?

文芸批評時評・1月 中沢忠之

 『文学+WEB版』を始めて半年がたった。月平均8000ビューのカウントがあり、まずまず読まれているのではないか。ひとえに寄稿者のおかげである。思えばコロナ禍でなければ始めてみようとは思わなかったかもしれない。毎週末浪費していた飲み代がかからなくなり、なんとなくやれそうな雰囲気を感じ、結果的に稿料などの開店資金を支えてくれたのだった。今年はどうだろうか。とりあえず1年やってみて考えたい。いずれにせよ寄稿者がいなければ成立しないのだが、とくに時評は傷つけたり傷ついたりするかもしれず精神的な負担大なので考えものである。

 今月は『群像』(2022年1月)の鼎談「ウルフとコモンリーダー」から始めたい。参加者は小川公代鴻巣友季子森山恵。論点は多岐にわたるが、「コモンリーダー」という観点からヴァージニア・ウルフを読み解いてみようというテーマが本線である。いわば読者論だ。ウルフは読者としてどんな作品から影響を受けたのか? ウルフの作中に出てくる読者の姿はどんなものか? はたまた、そもそもウルフはどういった読者を想定し、読者に何を求めていたのか? 「コモンリーダー」に対する考え方は三者それぞれだが、小川は「ケア」の観点からより明確にまとめてみせる。それは、「コモンリーダー」を「没頭して本を読める人」と定義し、男性と同じように「コモンリーダー」であろうとしても「家庭の天使」(ケア従事者)としての役割も期待される女性にはジレンマがあるというものである。
 おそらくこのジレンマがウルフ特有の話法に影響を与えたのだろう。たとえば鴻巣は、ジェイムズ・ジョイスとウルフの「意識の流れ」の違いを指摘し、「一つの視点を深めていく」ジョイスに対して、「幾つもの視点をシームレスに移っていく」ウルフを対置している。
 思えば2021年は、木村朗子が津島佑子論を連発したが、それは中上健次に対置されるものだった。中上は文学の批評が繰り返し振り返る参照先である。他に、住本麻子の富岡多惠子論があり、『G-W-G』で連載されている、照山もみじによる中島梓論があった2021年は、批評が従来の文学史とは別種の系譜を開いた年だったと見立てることができるかもしれない。

 「コモンリーダー」に話を戻そう。『文學界』(2022年1月)に掲載された千木良悠子「橋本治と日本語の言文一致体」もまた、従来の文学が求める「コモンリーダー」にはなれない違和感から橋本治を読み始めたのだという読書体験が中心になっている。「小学校低学年までの私は児童文学に夢中な本の虫だったが、いざ10代になって、大人向けの小説を読もうとしても読めず、苦い挫折感を味わっていた。「だ・である調」文体が怖かったのである。(中略)泣きながら逃げた先でコバルト文庫に出会い、女の子言葉の世界に耽溺していたら、その源泉に橋本治がいた」。
 「桃尻語」VS「おじさん語」。千木良にとって橋本治の「幼児」的な「桃尻語」文体は、「おじさん語」による「大人の本」の世界に参入するさいに「親切に手を取って啓蒙してくれた」導き手だったという。確かにそうなのだろう。千木良は、橋本治の「おじさん語」批判としての「桃尻語」開発を言文一致という観点から説明してみせる。そこで定義される言文一致とは、「硬直しかけた近代口語文体の抽象思考や言葉を孤独な思索のうちに柔らかく解いて、私的な会話や文章の中に馴染ませる作業」である。いわば知識と大衆を媒介・翻訳する啓蒙的なツールだ。橋本治の言文一致体論――「言文一致体が誕生から達成まで約20年かかる説」――を活用して「桃尻語」の啓蒙的な意義を実体験まじえながら解き明かす千木良論は、読み物として楽しく、また批評としても意義深いものだった。
 一方、欲をいえば、橋本治が「桃尻語」を手放した後の話、1990年代以降の話をもっと読みたいと感じた。言い換えれば、それは、千木良が「大人の本」の世界に参入し、「コモンリーダー」として「おじさん語」文体を(批判的にせよ)駆使できるようになってからの話である。批評の文脈でいえば、自由奔放な解釈――「ぼくがしまうま語をしゃべった頃」(高橋源一郎)――が称揚された1980年代を、構築なき脱構築として批判した『批評空間』が規範的な主体――「コモンリーダー」の先導者――として振る舞った90年代以降の話になるだろうか。

 啓蒙は幸福な思い出ばかりが詰まっているわけではない。それは権力関係から成り立つものだからである。啓蒙する側とされる側の関係は非対称であり、そこには力の勾配がある。『群像』の先月号は新人評論賞の発表があったが(2021年12月)、受賞した二作ともこの非対称的な権力関係を問題にしたものだった。渡辺健一郎「演劇教育の時代」は教育に、小峰ひずみ「平成転向論――鷲田清一をめぐって」は哲学と政治運動に、それぞれ内在する権力関係を批判的に検証している。小峰の「鷲田もSEALDsも、抽象的な翻訳語をいかに日常に近づけられるか、煩悶した」なる評言は、千木良が橋本治に見出した啓蒙的な「桃尻語」と重なるだろう。小峰も鷲田の試みを「一〇〇年以上遅れた、言文一致」と呼んでいる。
 啓蒙でも教育でも運動でもよい。彼らは単に表現分析をしているのではない。その表現が発話として誰に向けられるものなのか、そしてどのように機能するのかに注目している。彼らが注目しているこのような問題を、ここではかりに「上演性」としておこう。上記渡辺の演劇教育論をはじめ、『文学+WEB版』でも連載してもらっている勝田悠紀のフィクション論(「距離、あるいはフィクションの恥ずかしさについて」『エクリヲ』13号、2021年4月)など「上演性」(演者と観者の非対称性)の観点から表現を検証し直す批評が最近散見されることを指摘しておきたい。

 私たちは様々な関係に権力勾配を発見するセンサーを研ぎ澄ませてきた。書評家の豊崎由美が、TikTokでブックガイドを披露していたけんごをTwitterで批判して騒動となった一件もそのセンサーが発動していたのではないか。けんごは、TikiTokの主要なユーザーである10代の若者にブックガイドを届けて影響力を持っていた。豊崎はそのブックガイドを従来の書評の観点から「杜撰」だと批判し、案の定炎上した。この騒動は、権威や世代差の権力勾配で議論されることが多かった。偉い書評家が素人の若いTikTokerを虐めていると。藤田直哉も、豊崎の啓蒙・教育の失敗として議論している(「藤田直哉のネット方面見聞録:嫌われる「斬る批評」、伝え方どうすれば」2021年12月https://digital.asahi.com/articles/DA3S15147791.html?unlock=1#continuehere)。
 おそらく藤田の見立てが正解なのだと思う。ただ私は、二つの啓蒙のスタイル、「コモンリーダー」(の先導者)の対立として見てみたい。かりにそれが「推す批評」と「斬る批評」だとして、時代は後者から前者に推移しているわけでは必ずしもない。残念ながら、SNS界隈(あるいはAmazonなどのブックレビュー)ではむしろいまだに(?)「斬る批評」がありふれている。いずれにせよ、豊崎が失敗したのだとするなら、「斬る批評」(啓蒙の杜撰さ)にあったというよりも、発したツイートの「上演性」に無自覚だったという点に尽きるのではないか。一言でいえば、場違いというやつである。ただ私は、そもそも豊崎発言を、炎上しただけであって失敗的な文脈でとらえたくはないのだが。

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