進学校に感じる気持ち悪さについて

私が退学になっちゃった高校はいわゆる地域の進学校だった。
その地域では山にあるよくわからない学校として有名だった体育会系中高一貫校からそこに私は進学した。
前の学校みたいに授業中にTikTokを撮ろうとしたり、大声で騒ぐ子たちはいない。だけど、優等生たちに囲まれている中で少し居心地の悪さを感じた。なんというか、彼らから優越感のような雰囲気を感じるのだ。親からのたっぷりの教育課金で東進ハイスクールに通う彼らは、「いい大学に受からない奴勉強ができない奴は努力不足だ。甘えた奴らだ。」みたいなこと言いたげなを悪意のない爽やかな態度をとってくるように思うのだ。なんだかな、あの優等生らしい口だけ笑った顔がちょっと怖かった。

そんなことを思うのは私が単純に学校からドロップアウトして底辺人生だったからだと思っていた。しかし、一応大学生になれ、多少は自信のついた自分が先週高校時代のベストフレンドとあったとき、あの当時感じた気味悪さに確信をもったのだ。

久しぶりに会えたその友人は、「実は高三の時に少しいじめられていて…」とポツポツと語ってくれた。
詳しく聞くと、なんとその女友達はある男子生徒から成績などのことをみんなの前でいじられるという苦しい思いをしていたのだった。さらにクラスのほぼ全員が彼女をいじるのに加担していたらしい。
「勉強ができる人には人権がある感じで…」
友達は辛さを静かに噛み締めるような顔をしながらゆっくりとそのことについて話してくれた。

たしかに勉強ができることは素敵な才能の一つかもしれない。だが、そうじゃない人のことを、何か悪いことをしたわけでもないのに自分の基準で馬鹿にするのはいかがなものか。

数年前の東大の祝辞で上野教授が、「あなた方の努力や成功は自分の力のおかげだけではなく、恵まれた環境のおかげでもある。その頑張りを自分だけのためや人を貶めるためではなく、恵まれなかった人を助けるために使ってほしい。」と言っていた。当時はあまりピンと来なかったが、今は彼女が東大でこの祝辞をした意義がわかる。

私の友人を特進クラスでいじめてきた例の首謀犯の男子は今は東大に通っているらしい。これからもあの優等生らしい笑顔で爽やかに生きていくのだろうか。

気味の悪さの胸糞の悪さを私は感じた。その生徒らはもちろん、先生たちにもそう感じた。

考えの足りなかった私は友達に「先生は助けてくれなかったの?」と聞いてしまった。
「無理だったよ。授業は熱かったけど」そう友達は言いながら、特進クラス時代の担任の名前を出した。
その人は、私が現役時代にお世話になった先生だった。私に言語を使って自分を表現する方法を教えてくれた人だった。
だが、意外にも「あの先生がまさか」という気持ちは出てこなかった。
その先生は確かに熱意のある方で、授業範囲を越えた私の質問にも嫌な顔をせず答えてくれて、色々なことを教えてくれた。ただ、宿題を忘れてきた生徒や科目の成績の悪い生徒には厳しかった。
たしかに宿題を忘れてくるのもテストが赤点なこともあまり褒められることではない。でも、中には学校に通うこと自体が難しくて課題どころではない人やどんなに頑張っても取れる点数が他人と比べて高くない人もいる。

優等生には子どもでも大人でも、優等生特有の考えを持つ人がいる。
努力はできて当たり前で、高い目標が達成できないのは本人に非がある。
そんな考えをもつ人進学校には多い気がする。

ちょっと人より記憶力が良くて大学受験が上手くいった私は今、ちょっと名の知れた大学に行っている。その中でもやはり気味の悪さを感じることが少しある。なんか高校から大学、偏差値的に低いとこから高いとこに変わるにつれて、自分たちの知らない範囲の人たちのこと、彼らから見たら努力をしていない人たちのことが省かれていっている、見えなくなっているように思う。
爽やかな顔の彼らは、外国の貧困について語っても、隣にある貧困については気づいていないことがあるように思う。

例の山の上の中高一貫校時代、同じクラスの男子生徒が「だって俺結局ばかだし、勉強わかんないし」と寂しさを潰したような笑顔をして言っていた。
その諦めに似た笑顔を思い出した。



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