【映画】「熱のあとに」感想・レビュー・解説


女友達とよく、恋愛観の話になる。ちょうど昨日も、そんな話をした。昨日は結局、こんな話になった。「告白っていうのが、『YES』か『NO』か決めなきゃいけないものとして突きつけられちゃうだけだけど、なんかそれが違うんだよな」みたいな。要するに、「『YES』でも『NO』でもないところから恋愛を始められないものなのか(体の関係が先とかではなく)」みたいなみたいなことである。2人の間では割と共感性の高い話にまとまったのだけど、普通にはなかなか伝わらないような気がする。

これって結局、「告白する/される時点で、それが『愛』だとか『恋』だとかって確信しちゃっていいわけ?」みたいなことなのだが、そういう観点からすると、本作『熱のあとに』の話とちょっと通じるように思う。

作中で僕が一番興味深いと感じたのが、「愛したホストを刺して6年刑務所にいた園田早苗(橋本愛)」が、恐らく出所後の義務として定められているのだろう、精神科医と対話する場面である。

精神科医が彼女に、前回の話を踏まえた上で、「今も『臨時的に生きている』という感覚はありますか?」と質問する。するとそれに対して早苗は、まずこのような話から始めるのだ。

【「『本当に生きていた自分』が過去にきちんと存在していた」っていうのが大前提なんですけど。】

意味が分かるだろうか? つまり彼女は、「今は『本当に生きている自分』ではないが、かつてはそのように感じられた自分として生を全うしていた」という感覚を抱いているというわけだ。もちろん、彼女が言う「過去」とは、6年前にホストを刺すまでの、その愛したホストとの”幸せな”日々のことを指している。ちなみに、僕は映画を観終えてから知ったが、本作は、2019年に起こった新宿ホスト殺人未遂事件にインスパイアされた作品なのだそうだ。確かに、そんな事件があったなと僕の記憶の中にも残っている。

さて、早苗は出所後、小泉健太(仲野太賀)と結婚した。そこで苗字も「小泉」に変わっている。健太は、早苗の過去をすべて知った上で結婚を決めた。

さて、早苗はそんな健太について、

『夫のことは好きだが、それは”表向き”に過ぎない。』

と語っている。早苗の言葉には欠落が多いが、要するにこれは、「『夫のことが好き』という気持ちに偽りはないが、しかしそう思っている自分は『本当に生きていた自分』ではないのだから、結果として、夫への気持ちも『本当ではない』ということになってしまう」ということだろう。

では、「本当に生きていた自分」だった頃には、彼女はどのような状態にあったのか。精神科医がそのことを問うと、「自分が行うすべての行動が明確で濃密で強烈で、『生きてる』って感じがする」と答えた。精神科医から「ドラッグをやっているみたいな感じなんですね」と水を向けられると、「そうかもしれません」と返していた。

さて、その後である。彼女は「愛」について力説するのだが、その中で「世間の人は”そんなもの”を『愛』だと認めちゃって大丈夫なのかなって思ってる」みたいなことを言う。これも僕なりの解釈にはなるが、要するに「世間の人が『愛』だと思っているものは実は全然『愛』なんかじゃなくて、私の『愛』こそが本当の『愛』なんだ」みたいなことを言っているのだと思う。

まあ、ここまでの話で十分過ぎるほど理解できるだろうが、小泉早苗はなかなかにヤバい人物である。

ただ一方で、僕は、「スタート地点が世間からズレまくっているだけ」だとも感じた。少なくとも彼女の主張は、理屈が通っているなと感じるからだ。スタート地点さえ間違っていなければ、彼女は「世間からそうズレていない場所」に着地出来るはずなのだが、いかんせんスタート地点が絶望的にズレまくっているために、どれだけ”真っ当な思考”を積み重ねたところで、彼女はズレまくった生き方をするしかなくなるのである。

診療中、彼女が激昂する場面がある。それは、精神科医から「何故ホストを攻撃したのか」と問われたからだと思う(「思う」と書いているのは、作中では精神科医の言葉は映し出されず、精神科医の言葉に反応したのだろう早苗の言葉から場面が始まるからだ)。彼女は「攻撃したわけじゃない!」と大声を上げる。それに対して精神科医が、「では何故刺したのか?」と問うと、彼女はこのように答えるのだ。

【当時の私にとって、生きることと死ぬことはほとんど同じだったんです。だから、彼と生きていくためには、一緒に死ぬのが一番いいんじゃないかって】

これが彼女の「愛」であり、「スタート地点」である。

そして彼女には、「自分のスタート地点がどのようにズレているのか」を理解することが出来ない。彼女が精神科医に、

【私の愛し方って、そんなにダメなんですか?】
【どうして私の愛し方は受け入れられないのか?】

と問う場面がある。彼女が真剣にそう問うていることが伝わるシーンだ。さらに、詳しくは書かないが、「早苗が跪いて懇願するシーン」もかなり衝撃的だった。彼女は「どのようにズレているのか」は上手く捉えきれていないが、「明らかにズレていること」はもちろん分かっており、それ故の行動なのだが、そのあまりの切実さには、ちょっと打たれてしまう。

そして彼女のこのような感覚を知れば知るほど、早苗がかなり早い段階で口にする「完璧な檻」という表現にも納得が行くだろう。

結局のところ、彼女が望んでいる「檻」というのは、「『好き』で留まることが出来、『愛』に進まなくていいと思える環境」である。そして、その「檻」として、早苗は健太を選んだ。そのことは、健太自身も理解している。彼もまた、「早苗にとっての『完璧な檻』でいよう」という心構えで結婚を決めるのである。

しかし、予想できると思うが、早苗はそんな「檻」に留まることが出来なかった。作中でその「きっかけ」になっている状況がなかなか凄まじく、この点はめちゃくちゃフィクションだなと感じるが、ただもしも、その「きっかけ」がなかったら、早苗は「檻」の内側に留まっていられたのだろうか、と考える。

この点に関して言えば、物語の最後の最後まで観たからこそ出来る判断があるのだが、あまり後半の展開に触れすぎないように、この点については書かないことにしよう。ただ、ぼやっと書くと、「『檻』から出たことで見えたこともある」みたいな展開になっていく。

さて、全然違うステージの話ではあるのだが、早苗のような感覚は分からないでもないなと感じる。思い出したのは、以前読んだ『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』(花田菜々子)の中のこんな記述である。

『短い時間の中で、自分が聞きたい話が引き出せるように切り込むことがとにかく大事だった。ただ、これを身につけてしまうと、会話の刃が鋭くなりすぎて、今度は仕事などで会う人との他愛のない世間話がつまらなく感じてしまうことがデメリットでもあった。』

著者はSNSで知らない人と会い本を勧めるという活動をやっており、その過程で、いわゆる「コミュ力」が研ぎ澄まされた。しかしそのことによって、「普通の会話」がつまらなく感じられるようになってしまった、というのである。

わかるなぁ、と思う。僕も割と同じようなことを考える。僕は異性と「恋愛」ではなく「仲の良い友だち」になることを目指していて、それなりに上手くいっていると思っている。どう考えても、「『恋愛』より『仲の良い友だち』の方が難しい」と思っているので、僕は僕なりに「コミュ力」が高まっていると感じているのだが、それ故に、「普通の会話」が退屈に感じられてしまうという弊害を感じてもいる。

早苗の状況も、基本的にはこれと同じだと思っている。早苗の愛が「本物の愛」なのかどうかは一旦置いておくとして、彼女の自覚においては「これこそが『愛』であり、これ以外は『愛』とは呼べない」という状態に達してしまっているのだ。そして、一度でもそれを経験してしまえば、「その状態に達していない関係性」は「劣ったもの」と感じられてしまうだろうし、もちろんそれを「愛」とは認められないことになる。

そしてそうなってしまえば、「その状態に達していない関係性」はすべてくすんで見えるし、退屈だし、重視すべきものではないものとしか感じられなくなるだろう。そして、そのような相手が、健太なのである。

一方で早苗は、「自分が『愛』だと感じる状態」を目指すとしたら、自分の周辺に様々な軋轢が生じることも理解している。彼女にとっては、「愛したホストをナイフで刺す行為」は「愛」の一貫であり、彼女の世界の中では「理想に近づくための純粋な行為」でしかない。しかしもちろんそれは、一般社会では「殺人未遂」としてしか扱われないのだ。

彼女には、この「ズレ」の意味が理解できない。本質的には恐らく、「私の『愛』を実現を邪魔するもの」ぐらいにしか感じられないだろう。しかし、6年間刑務所にいたことが彼女に何かをもたらしたのだろう、その「ズレ」を無視して生きていくことは許されないのだと、一旦理解することにしたのだと思う。

しかしもちろん、本当のところは納得できていない。そこで彼女は、過去の自分を「本当に生きていた自分」とし、翻って今の自分は「そうではないのだ」と規定することで、無理やり「社会性」を飲み込むことにした、ということなのだと思う。

このように捉えるなら、僕は小泉早苗という人物のことが「理解できる」と感じるし、同じような捉え方が出来る人もいるんじゃないかと思う。早苗のした「行為」はもちろんルールに則って処罰されなければならないが、「行為」が狂気的だからと言って「思考」までが狂気的かと言えばそうではないこともある。そして早苗の場合は、確かに「思考」も狂気的ではあるのだが、それはあくまでも「スタート地点の歪み」によるものであり、「思考の展開のさせ方」は大きく間違ってはいないだろうと感じさせられた。

さてそして、これは賛同してもらえるのかどうかよく分からないが、僕にとってはむしろ健太の方が謎だった。健太の方が、行動も思考も全然理屈が通っていないように思う。確かに、分かりやすく狂気的なのは早苗の方なのだが、本質的に狂気を宿しているのは実は健太の方なのではないかとさえ感じた。

これも後半の展開になるので詳しく触れないが、ある修羅場が展開される中で訪問者がやってくるのだが、そこから健太の行動がどんどん意味不明になっていく。今振り返って考えてみても、「健太、マジで何してるん?」と感じる。早苗は、「スタート地点が歪んでいるためにすべてが狂気的になっているが、理屈としては一本筋が通っている」と感じられるのだが、健太のそれはブレブレというか、グチャグチャというか、何がしたのかさっぱり理解できなかった。僕の感触では、「完璧な檻」みたいな言葉を使って自身の状況をちゃんと伝えつつ、どうにか社会に馴染もうと奮闘している早苗の方が「真っ当」に見えてしまった。まあ、これはあまり賛同してもらえない意見だと思うが。

「小泉早苗の物語」のフリをして、実は「小泉健太が崩壊していく物語」といえるのかもしれない。

あと印象的なのは、映画のラストシーン。具体的には触れないが、「なるほど、ここで『60秒の話』が出てくるのか」と感じた。本作はとにかく、「次に何が起こるのかさっぱり分からない」という、予想もつかない展開に翻弄される物語であり、正直「これ、一体どうやって終わらせるんだろう」と思っていたのだが、本作の終わらせ方はとても絶妙だったと思う。

特に、具体的に書かないので伝わらないと思うが、ラストシーンの状況はまさに「檻に囚われている」みたいな見え方にもなるし、つまり「2人がその檻を受容していく」みたいな決意にも感じられるわけで、映画全体のテーマも上手く回収しているように思う。

全体的に「訳のわからなさ」に支配される作品であり、なかなか人に勧めにくい作品ではある。ただ、実際の事件にインスパイアされたということを知った上で改めて感じることは、「ニュースで報じられる情報だけで物事を判断することの危うさ」である。もちろん本作は単なるフィクションであり、実際の加害者の生き方を描像しているわけではないと思うが、それでも、「物事には常に、多様な捉え方が存在しうる」という想像力の重要性を改めて実感できるのではないかとも思う。

しかしホント、小泉早苗のような人間は、社会の中でどんな風に生きていけばいいんだろうか。犯罪者やストーカーなどに限る話ではないが、「どうしても社会から逸脱してしまう人」は排除されるしかないのか。僕は、もちろん多少の制約は仕方ないとはいえ、社会の「小ぎれいさ」みたいなものをもう少し緩めて、「決して綺麗な形をしているわけではないものも許容していく」みたいな社会だといいなぁ、と思っている。まあ、これは自戒を込めつつだけど。

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