【映画】「過去負う者」感想・レビュー・解説

いやー、これはホント変な映画だった。良い意味で。久々に、脳がバグるような感覚になった。良い意味で。なんかすごく、観て良かったなと思う。

映画の冒頭で、「実在する団体をモデルにしたフィクションです」と表示される。まあ、映画を観れば、そのことは明らかだ。

「実在する団体」というのは、元受刑者の就労支援を行う「CHANCE」(映画では少し変え、「CHANGE」として登場する)である。同名の就職情報誌を発行しており、刑務所にいる時から見ることが出来るそうだ。そんな支援を行う団体がモデルになった映画というわけだ。

それを踏まえれば、ドキュメンタリーではなく、フィクションであることは明らかだ。団体職員はともかく、元受刑者が顔出しで出演するはずがない。しかも物語を追っていくと、元受刑者たちが再犯を犯してしまう様も映し出されていく。そんなのが、ドキュメンタリーなはずがない。

しかし僕は映画を観ながら、気を抜くと「ドキュメンタリー映画を観ているんだっけ?」という感覚に襲われてしまった。もう本当に、自分の脳がバグったのかと何度も感じさせられた。

なにせ、映画を観ながら入ってくるすべての情報が、「これはフィクションである」と伝えているのだ。ストーリーもカット割りも何もかも、フィクションでしかない。それなのに、うっかりすると「自分は今ドキュメンタリー映画を観ているのだ」という感覚になってしまう。こんな感覚になることは今までなかったと思うので、本当に不思議で仕方なかった。

役者の演技は、お世辞にも上手いとは言えなかった。主人公と言っていいだろう2人、「ひき逃げ犯の田中拓役」と「CHANGE編集部の藤村淳役」の役者はなかなか上手かったなぁと思うのだけど、逆に言えば「下手だなぁ」と感じる人もいて、役者の演技という意味では決してレベルが高いとは言えない。

しかし、だからこそと言っていいのか、それが逆に一層の「ドキュメンタリー感」を高めてもいると言えるだろう。この感想を書くにあたって公式HPを観ているのだが、どうやらこの映画には「台本」が存在しないようで、いわば「即興劇」のような形で撮影が行われたようだ。そう考えると、一層凄まじいなと感じさせられる。

繰り返すが、ありとあらゆる情報が、この作品が「フィクション」であることを示しているにも拘らず、否応なしに「ドキュメンタリーだ」と思わせる「何か」があり、その引力に引きずられるようにして最後まで観させられてしまった。ホント、こんな不思議な映画は久々に観たように思う。

さて、映画を取り巻く基本的な情報に少し触れておこう。適宜、上映後に行われた監督によるトークイベントの情報も入れ込んでおく。

日本では、出所した元受刑者が再び犯罪に手を染め刑務所に戻ってしまう「再犯率」が50%を超えている。これは、先進国の中でもかなり高いそうだ。そしてその大きな要因の1つとなっているのが「出所後の生活の困難さ」である。アパートも借りられない、仕事も出来ない。そういう状態になれば、やはり再び犯罪に手を染めるしかないと考えてしまう者も出てくるだろう。

ここに、日本の「懲罰主義」の難しさがある。日本の刑務所は、「悪いことをした人間には罰を与える」という理屈で運営されている。これが「懲罰主義」だ。「当たり前だ」と感じるかもしれないが、世界の潮流は違っているそうだ。特に再犯率の低い国ほど「教育主義」を取っているという。刑務所で、「犯した罪と向き合うこと」「資格の取得や就労支援」などを行い、出所後の生活の安定が図れるようにするのが「教育主義」である。このようなやり方を取っている北欧やヨーロッパの西側では、再犯率が20%~30%程度に抑えられているという。

映画で描かれているのは、まさにこの点だ。つまり、「元犯罪者を社会が許容しなければ、犯罪が再生産されるだけである」という現実が突きつけられているのである。

この点については、映画の中で非常に印象的なシーンがある。監督自身最も描きたかったと語っている「Q&A」の場面だ。あまり具体的には書かないが、ここでは「一般市民」と「元受刑者、支援団体のスタッフ」が激論を交わす状況となる。本作はフィクションだが、「台本が無かった」という事実を知った上で改めてこのシーンのことを思い出すと、「厳しい問いを繰り出す者たちの意見はもしかしたら、出演者個人の本心なのだろうか?」とさえ感じさせられる。まあ恐らくそんなことはないだろうが(台本がなかったとしても、それぞれの人物に担うべき役割が与えられ、それに沿ったセリフを役者自らが考えて発した、というのが恐らく正解だろう)、しかしそんな風に思わせるほどにリアリティを感じさせる場面だった。

そして、そこで突きつけられる様々な「本音」が、元犯罪者たちの「更生」を妨げる要素となっているわけだし、この問題の難しさの本質を炙り出しているシーンであるとも言える。

さて、少し僕自身の考え方に触れておこう。

まず僕は、「『排除することの容易さ』に嫌悪感を抱いてしまうこと」が多い。なんというのか、「排除する」という行為はあまりにも簡単なのだ。「目の前にある食べ物を食べる」とか「電車に乗って目的地まで行く」ぐらい、簡単すぎる行為である。それはつまり、「何も考えなくても出来ること」というわけだ。そして僕は、そのような行為全般が、基本的に好きではない。

だから僕は「排除する」という行為そのものを問題視するつもりはない。あくまでも、その行為に潜む「安易さ」を問題にしているつもりだ。考えて考えて考えて、それでも誰かを「排除する」と決断したのであれば、僕はそれを許容できると思う。仮に排除されるのが僕自身だとしても同様だ。もちろん、その考えた人物が不十分にしか考えられていない可能性はあるだろう。前提をすっかり忘れていたり、考慮すべき条件を無意識の内に排除していることだってあると思う。しかしそれでも、その本人が、「自分はメチャクチャ考えてこの結論に達した」と考えているのであれば、それはその人の決断として僕は受け入れる用意がある。

しかし、世の中に存在する「排除」のほとんどは、そんなことはないはずだとも思う。正直なところ、「排除するための理屈」などいくらでも思いつくし、考えられる。さらに、元受刑者のような「『排除されて当然だ』と多くの人が感じるだろう対象」に対してであれば、「排除するための理屈」を考えるハードルは一層下がると言っていい。何も頭を使わなくたって、そのような理屈はポンポンを生み出せるだろう。

そしてそのような「何も考えていない人の決断」は、それがどんなものであれ好きになれない。そしてだからこそ、今の世の中に蔓延る「排除」の風潮には、賛同しにくいと感じる。

元受刑者を「排除する」者たちの理屈は、おしなべて言えば「なんか嫌だ」ということに尽きる。まあ、別にそういう理由で人を排除することがダメだとは決して思わないが、しかし彼らは、「じゃあ、元受刑者はどうやって生きればいいのか?」という問いに対しては何も考えはしない。「それは自分の問題ではない」と考えているからだ。映画の中では「自己責任」という言葉が出てくる。「自己責任」という言葉はつまり、「それはお前の問題で、私の問題じゃないから、知らないよ」という態度を表明していると言っていいだろう。

しかし、僕は正直、そのような態度が許されるはずがないと思っている。

法治国家に生きているということは、「暴力の権限をすべて国に委譲するから、私たちの安全のために、法律に則って悪人を裁いてくれ」という意見に同意することを意味するだろう。つまり僕たちは、「犯罪者の処遇を国に丸投げすることで、安全を手にしている」ということになるわけだ。だから本来的には、出所後の元犯罪者の支援も国の仕事だと思うのだが、まあそれはとりあえず置いておこう。つまり僕たちは、そんな意識は微塵もないとは思うが、「国にお願いをして、犯罪者たちの対処をしてもらっている」のである。同じように考えれば、出所後の元犯罪者たちの支援についても、僕らがお願いしなければならないことのはずだ。決して他人事ではないと僕は思う。

もちろん、「自己責任」という人の気持ちは、「犯罪に手を染めたお前が悪い。俺はその一線を超えていないんだから、超えたお前にすべての責任がある」というものだろう。確かにその主張はその通りだと思うのだが、しかし僕は本当に、「よくもまあ自分がその一線を超えないと無邪気に信じられるものだ」と感じる。

例えば、車を運転している者が、明らかに歩行者の飛び出しに非がある事故で歩行者を死なせてしまっても、「犯罪者」になってしまうはずだ。気をつけていたつもりでも、うっかり「麻薬の密輸」に加担させられてしまうかもしれないし、軽い気持ちで応募したバイトが「闇バイト」だったなんてこともあるだろう。親の介護に疲労して思わず殺してしまうこともあるだろうし、育児に追い詰められた親が子どもを殺してしまうことだってあるはずだ。

そういう想像力を、誰も持ち合わせていないのだろうか、と感じてしまう。

そりゃあ、「未来永劫絶対に犯罪者になることはない」という人物がいるとして、そういう人物が「一線を超えてしまった犯罪者」を非難することは状況として成立し得ると思う。しかし、そんなことが可能なのは「未来からやってきたタイムトラベラー」ぐらいだろう。あまりに非現実的だ。

確かに、犯罪者は悪い。そりゃあ圧倒的に悪い。それは間違いない。別に、犯罪に手を染めた者たちを無条件で許せなどと言っているのではない。ただ、法に則って裁きを受けた者たちが社会に出てくるのだから、その処遇をどうするかを考えるのは「全員」の問題のはずだ、と言っているだけである。

そんなことを言っているお前は、じゃあ身近に元犯罪者がいて恐れを感じないのか、と言われるかもしれないが、僕にとってその質問はほぼ意味を成さない。何故なら、「これまで一度も犯罪に手を染めたことがない人間だって、犯罪者になる」からである。

ニュースなどで報じられるのは、殺人や強盗など「凶悪犯罪」と言われるものが多いと思うが、そのほとんどは「初犯」のはずだ。殺人事件のニュースで、「20年前に殺人で服役したことがある」みたいなことを聞くことはほぼない。性犯罪や薬物など、同じ人間による犯行が繰り返されやすい犯罪もあるし、決して一概に言えることではないが、どう考えたって「初めて犯罪に手を染める人」だって山ほどいるのだから、「元犯罪者」だけを怖がる意味が僕には理解できない。

よく言われることだと思うが、飛行機による死亡事故の確率よりも、自動車による死亡事故の確率の方が遥かに高い。この事実を理解すれば、「飛行機に乗るよりも、歩道を歩く方が怖い」と感じなければおかしい。しかしやはり多くの人は、歩道を歩くことより、飛行機に乗ることの方が怖いと感じるだろう。

確かに、一度犯罪に手を染めた者は再び罪を犯しやすいかもしれない。しかし、その再犯率は、社会の努力によって下げられる。一方、「初めて罪を犯す人間」がどこの誰なのか、あらかじめ予測することは不可能だし、対処も出来ない。そっちの方が怖くないか? と僕は感じる。誤解されたくはないが、決して「元犯罪者のことが怖くない」と言っているのではない。そうではなくて、「これまで犯罪に手を染めたことがない人間だって、同じぐらい怖い」と考えているだけだ。

このような僕の考え方はきっと、一般的には受け入れられないだろう。それは理解している。しかし僕は、僕のように考える人間が増えた方がいいんじゃないか、と思っている。劇中でも少し言及されていたが、「元犯罪者だけを集めた島を作って隔離する」みたいなことが出来るなら、その方が嬉しいと感じる元犯罪者もいるだろう。しかしどうしたってそんなことは現実的ではない。だったら、「刑務所に入っていた者は必ず社会に出てくる」のだし、「そんな彼らがどう生きるべきか」はやはり、僕らの問題なのだと思う。

このようなことは以前から考えとして持っていたが、この映画を観ることで改めて強く実感させられた。

ホントに、なんとも言えないモヤモヤが強烈に残る、とても変な映画だった。良い意味で。

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