【映画】「正義の行方」感想・レビュー・解説

いやー、これは実に興味深い作品だった。

「飯塚事件」のことを知ったのは恐らく、『殺人犯はそこにいる』を読んだ時だったと思う。著者の清水潔の尽力のお陰もあって再審無罪となった「足利事件」においては、事件当時まだ開発されたばかりだったDNA鑑定法「MCT118法」によって有罪判決が決まったのだが、後にこの鑑定法に「証拠能力が無い」と認められて再審無罪が決まった。そして、同じく「MCT118法」のDNA鑑定も有力な証拠となって有罪が決まり、最高裁判決からたった2年後という異例のスピードで死刑が執行された「飯塚事件」も取り上げられていたのだ。本作『正義の行方』にも、少しだけ「足利事件」の話が登場する。

最近始まったドラマ『アンチヒーロー』の第2話で、ごく一般的な人なら「ちょっと信じがたい」と感じるような展開が描かれたが(一応ネタバレをしないためにドラマの内容には触れない)、「信じがたい」と感じた人は是非、本作『正義の行方』や『殺人犯はそこにいる』に触れてほしいと思う。巨大な権力を持つ側がいかに”真実”を捻じ曲げるかが、リアルに理解できるだろうと思う。

さて、そんな「飯塚事件」に真正面から取り組んだドキュメンタリー映画なのだが、しかし僕が思う本作の最大の焦点は「事件そのもの」には無い。本作で僕が最も強く関心を抱いたのが「西日本新聞による、事件当時の報道の再検証」である。

そう本作は、「過ちかもしれない状況が起こってしまった場合、それに関わった者たちはいかにその過去と対峙すべきか」という観点から捉えられるべき作品だと僕には感じられた。

さて、内容について詳しく触れる前に、本作を観た上での「飯塚事件」に対する僕の心証に触れておこう。それはほぼ、本作中に登場する西日本新聞の記者・中島邦之のものと同じと言える。

中島邦之は、「久間三千年が犯人だと思いますか?」と問われ、次のような返答をしている。

【久間三千年が犯人だったかどうかは、神ではないのだから分かるはずもない。しかし、司法手続きの観点から言えば、『疑わしきは罰せず』であり、十分な証拠が揃っていないのであれば無罪であるべきだ。そしてそのような観点から言えば、久間三千年は無罪であるべきだと思う。】

まさにその通りだと思う。

本作では、冤罪事件かもしれないと言われる「飯塚事件」を扱ってはいるが、しかし「久間三千年は無罪だったはずだ」というような視点では作られていない。情報の取捨選択は当然せざるを得ないわけだが、僕の感触では、かなり公平に、あらゆる情報を同列に提示しているように感じられた。「久間三千年が犯人かどうか」については、既に死刑が執行されてしまっている中では永遠に真偽が判明することはないだろう。

しかし、明らかに言えることは、「久間三千年の裁判や、裁判までに至る過程には、明らかに不備があった」ということだ。そしてその不備は、「裁判で示された『証拠』が持つ立証能力を削ぐもの」だと感じられる。「飯塚事件」の裁判では元々「直接証拠」は一切存在せず、間接証拠のみで審判が下された。久間三千年はある日以降、取り調べ等でも一切何も喋らなかったそうなので、「女児をどのように連れ去ったのか」や「犯行動機」なども一切明らかになっていないのだ。

そのような「間接証拠のみで判断が下された事件」において、さらにその「間接証拠」の立証能力が削がれているのだから、司法の原則から言えば「久間三千年は無罪と判断されるべき」と考えるのが妥当であるように思う。中島邦之の見解に、まったく同意である。

さて、久間三千年の死刑執行がなされた後の2009年から、手弁当で集まった弁護団が再審請求を行った。一審、高裁と審議され、最高裁の判断が示されたのが2021年。弁護団が200ページにも及ぶ書面を提出したにも拘らず、最高裁の判決はわずか6ページ。担当した弁護士は記者会見の中で、「この判決を書いた裁判官5人に、こんな仕事をしていて恥ずかしくないのかと聞きたい」と憤っていた。

そしてその後、弁護団は第二次再審請求に取り掛かり、まさにこのGW開けぐらいに一審の判断が示されるのではないかと、上映後の監督によるトークイベントの中で語られていた。

さて、全然本題に入らないが、脱線ついでにもう1つ。この第二次再審請求の話に関連して、監督から驚くべき話が出てきた。久間三千年の裁判における「4つの間接証拠」には含まれていないのだが、「女児2人の連れ去り現場の断定」に大きな役割を果たした女性の証言が存在する。しかし去年(と言っていたと思う)、その証人の女性が法廷で、「女児2人を見たのは別の日だったのだが、警察から証言を変えるように圧力があり、従ってしまった」と証言したというのだ。

彼女のこの勇気ある告発は決して、「久間三千年の犯行ではない」という直接の証明にはならないが、ただ、「警察が久間三千年を犯人と見込んでムチャクチャな捜査をしていた」ということは明らかだと思う。ちなみに監督は「名誉のために」と、本作に出演してくれた刑事たちは「証人への圧力」には関与していないと話していた。別の部署が担当していたそうだ。

それでは、「西日本新聞による、事件当時の報道の再検証」の話をしていこう。

本作には「元」も含め、4人の西日本新聞記者が登場する。当時事件を最前線で取材していた宮崎昌治、当時副キャップだった傍示文昭、そして先程紹介した中島邦之と、彼と共に検証記事の取材を行った中原興平である。

本作は基本的に「記者」「(元)刑事」「弁護士」への取材映像によって構成されているのだが、冒頭から登場するのは宮崎昌治と傍示文昭の2人である。彼らは、まさに事件当時紙面を作っていた2人である。さらに西日本新聞は地元紙ということもあり、「飯塚事件に関して他紙にスクープを抜かれるわけにはいかない」と、総力戦で取材を行っていた。傍示文昭は本作の中で、「久間三千年の家族が、『警察と西日本新聞がタッグを組んで久間三千年を犯人に仕立て上げようとしている』と感じるのは当然だと思う」と語っていたが、それほど前のめりに取材を行っていたというわけだ。

印象的だったのは、「重要参考人浮かぶ」という見出しの記事を打った時のエピソードだ。通常このような見出しを打つ場合、犯人の逃亡や自殺の恐れなどを考慮し、「翌日には恐らく逮捕状が出るだろう」という確証が必要なのだそうだ。しかし、副キャップだった傍示文昭は、当時の状況について、「明日や明後日どころか、翌月にも逮捕状が出るような雰囲気はなかった」と話していた。実際彼は、1年の副キャップの後、キャップを1年務めるのだが、その2年間、久間三千年の逮捕の動きはまったくなかったというのだ。

しかし、現場で取材を行っていた宮崎昌治は、「ここで打たなきゃダメだ」と主張したそうだ。新聞記者というのは抜いた抜かれたみたいな世界なわけで、現場記者からすれば「やるしかない」みたいな感じだったのだろう。そして実際に、「重要参考人浮かぶ」という見出しの記事は出ることになった。

作中で宮崎昌治は、「今の私だったら、この記事を出すのは止めるでしょうね」と語っていたのが印象的だった。それは別に、「久間三千年が犯人ではないという確証が高まったから」みたいなことではないと思う。そう感じられた理由は、彼が「『ペンを持ったおまわりさん』になるなと言われる」という話をしていたことからも分かるように思う。

「ペンを持ったおまわりさん」とは要するに、「警察でもないのに正義を振りかざす記者」みたいな意味だろう。そして宮崎昌治は、かつての自分について「『ペンを持ったおまわりさん』でした」と語っていたのだ。そう語る彼の目には涙が浮かんでいたように見えた。

このように本作に本作においては、「久間三千年は犯人かどうか?」みたいな観点とはまた別に、「あの時の自分は正しかったのだろうか?」みたいな視点が多数盛り込まれていくのである。

映画の冒頭から登場する宮崎昌治と傍示文昭は、少し違ったスタンスで話をしていた。宮崎昌治基本的に、「久間三千年が犯人であることは疑っていない」というスタンスでいるように思う。彼は、「久間三千年が犯人であるとしても、自分の取材スタンスは正しくなかったかもしれない」という想いを抱いているように見えた。しかし傍示文昭の方は違う。裁判の過程や、異例の早期死刑執行などを踏まえ、「本当に久間三千年が犯人だったのだろうか?」みたいな疑念を、ずっと持ち続けていたようなのだ。

そしてだからこそ、西日本新聞は「飯塚事件の再検証」の連載をスタートさせることになる。というのも、傍示文昭が編集局長に就任したからだ。そして彼は、宮崎昌治を社会部長に据えた。理由は明白だ。「飯塚事件の再検証」を行うためである。「同じ痛み」を抱えている者同士が上に立ったからこそ、「飯塚事件とは一体なんだったんだろうか?」という点を改めて掘り出そうという企画が成立したのである。

しかし、その取材を誰にやってもらうのかが問題だった。傍示文昭は、「飯塚事件にまったく関係したことがない記者がいい」と考えており、社内に適任がいた。調査報道の記者でありながら飯塚事件にまったく関わらなかった中島邦之である。しかし彼は、打診を受けてもすぐには首を縦に振らなかった。まあ当然だろう。難しい取材になることは明らかだからだ。それでも傍示文昭は粘り強く交渉を続け、ようやく「中原興平を下に付けてくれるならやる」という条件を引き出す。

傍示文昭はこの条件について、「恐らく私が試されたのだろう」と話していた。というのも中原興平は、直近の人事異動で別の支局へと移っていたからだ。その彼を、またすぐに引き戻すなんてことはさすがに出来ないだろうと踏んでいたのではないか、というわけだ。しかし傍示文昭も本気である。次の人事異動で中原興平を再び呼び戻し、こうして2年間83回に渡る連載が始まることが決まった。2017年のことである。

僕は、西日本新聞のこのスタンスが非常に素晴らしいものに感じられた。まだまだ記憶に新しいと思うが、ジャニー喜多川の性加害問題に関係して、利害関係者でもあったテレビ局が報道機関としての役割を果たせていなかったのではないかという話になった。そして各社とも、「社内で調査を行った」みたいな感じの雰囲気を出していたが、やはりそれは「お茶を濁す」程度のものに感じられてしまった。

自らの過ちを認めることはとても難しいことだし、特に、普段「追及する側」にいる者であればあるほどそのハードルが上がることも理解できる。だからこそ、西日本新聞のスタンスは素晴らしいと感じられた。宮崎昌治は、「再検証の連載においては、私自身が法廷に立たされていると思っていた」と話していたし、傍示文昭は「役員会で、『あの連載はいつまでやるんだ』『ゴールが決まっていないなら今すぐ止めろ』などと散々言われたが、止めるつもりなどなかった」みたいな話をしており、2人が相当の覚悟を持ってこの再検証連載を始めたのだということが伝わってきた。

本作においてはとにかく、この「西日本新聞による再検証記事」の話が最も興味深く、広く知られるべきことだと感じた。どんな立場にいる人だって過ちを犯すものだが、そうなってしまった時にどう振る舞うのか、みたいなことがやはり一番重要だと思う。西日本新聞のスタンスは、「自分だったら同じようなことが出来るだろうか?」と多くの人に考えさせるものではないかと感じた。

さて、「過ちを犯した時にどうするか」という話に関連させるのは少し不適切だとは思うが、本作に登場する徳田靖之のある発言にはちょっと驚かされた。

先程少し触れたが、40人ほど集まった弁護団は、久間三千年の死刑執行後に再審請求の申し立てを行っている。そしてそのことについて徳田靖之は、「自分たち(これは徳田氏と、もう1人の代表である岩田務弁護士を指している)が早く再審請求を行わなかったせいで久間三千年が亡くなってしまった。自分たちが殺したようなものだ」みたいなことを言っているのである。

監督はトークイベントの中で、本作の取材はまず弁護団から始まったと言っていた。そしてやはり、「自分たちが殺したようなものだ」という発言には驚かされたと語っていたのである。確かにその通りだと思う。しかし、彼らにはそのような想いがあるからこそ、最高裁で再審棄却の決定が下されても、第二次再審請求を行うなど、今も精力的に活動を続けているのである。

久間三千年の最高裁判決が出たのが2006年。そして死刑執行が2008年。その翌年に再審請求が行われた。ネットで調べると、「2012から2021年の10年間では、確定から執行までの平均期間は約7年9ヶ月」というデータが見つかった。2008年も、大体同じような感じだっただろう。そしてそのように考えると、確定から執行まで2年というのはかなり短い。2年以下で執行された事例も無くはないようだが、本作でもやはり「久間三千年の死刑執行は異例の早さだった」と説明されていた。

この点に関しては、もちろん憶測でしかないのだが、「都合の悪い事実が明らかになったらマズいから早々と死刑を執行したのではないか」のような見方も存在する。まあさすがにそれは考えすぎという感じもするが、可能性はゼロではないだろう。事実、「死刑が執行されている事案だから再審請求が通らないのだ」と受け取られている。日本ではこれまで、「死刑判決確定後に再審請求が認められたケース」は4件存在する。しかし、「死刑執行後に再審請求が認められたケース」はゼロである。もの凄く穿った見方だが、「死刑を執行してしまえば、裁判所が再審請求を通すことはない」と考えて早期の死刑執行を指示したのであれば、とんでもない話と言わざるを得ないだろう。

さて、これも「過ちを犯した時にどうするか」という話として提示するのは不適切かもしれないが、本作に登場する刑事の話にも触れておこう。

登場する刑事は皆、「久間三千年が犯人で間違いない」と主張する。ただ当然だが、これが当時の捜査員の総意かどうかは不明だ。というのも、本作に登場する元刑事は当然「カメラの前で証言することを選択した者たち」であり、サンプルとしては偏っている。「久間三千年が犯人であることに疑念を抱いているが、カメラの前では語れない」と考えている元刑事だっているかもしれないわけで、その辺りのことはもちろん分からない。

しかし、僕がとにかく気になったことは、「元刑事たちには、『過ちを犯したかもしれない』という感覚が微塵もないこと」である。ちょっとこのことは怖いなと思う。

もちろん、「犯人を捕まえて法廷へと送る刑事」の立場からすれば、「絶対に間違いないという確証」を持っていてくれないと困るし、そうでなければ刑事として不適格だと感覚はある。しかしそれはそれとして、「飯塚事件」のように直接証拠が一切存在しない事件においては、「もしかしたら……」という可能性は常に頭の片隅に持っていてほしいとも感じてしまう。そうでなければ、先入観によって捜査が歪んでしまうからだ。

本作中では、そのような「先入観によって歪んだのだろう実例」が紹介されていた。

「飯塚事件」においては、「死体遺棄現場近くで車を目撃した人物の証言」がかなり重要な証拠として扱われていた。現場は山林で、普段人通りなどない。しかしその日はたまたま、森林組合の職員が昼食を食べるために現場近くを車で走っており、その際に「紺色の車」を目撃したというのだ。その人物の目撃した車は、久間三千年が所有していた車と一致し、これが彼の犯行を裏付けるものとして扱われていた。

しかし、現場近くを走る道路はカーブしており、職員がそこを車で通りがかった際に停車していた車を目撃した場合、「1秒にも満たない時間」しか視界に入らないはずである。にも拘らずその職員は、「車」や「斜面から上がってきた男」などに関して、実に19項目もの証言を行っているのだ。しかも、警察がその証言を記録したのは、事件発生から17日後のことである。

つまりその職員は、17日も前にコンマ何秒しか見ていないはずの状況について、19もの項目を答えた、ということになるのだ。世の中には確かに、写真のように状況を記憶できる特殊な人も存在するが、そうでもない限りまず不可能だろう。

さらに、再審請求を行う過程で、検察が当時の警察の捜査記録を開示したのだが、そこに、「目撃者に誘導を行っていたのではないか」と疑わせる記載がなされていた。

警察は、3月9日に職員から聞き取りを行っていた。これが事件から17日後のことである。そして捜査記録によると、なんとその2日前の3月7日に、警察が久間三千年の車を確認に行っているのだ。つまり、3月9日に目撃者の聴取を行った際には、警察は既に、久間三千年の車の特徴を把握していたのである。警察は元々、久間三千年が捜査線上に浮かんだのは3月11日と発表していたのだが、この点についてはちょっと怪しいと言えるだろう。

ただ、本作に出演していた元刑事の1人は、「車の調査をやって久間三千年に行き着いたんだ」みたいな話をしていた。当時目撃された車は「ダブルタイヤ」というかなり特徴的なものだった。だから、その元刑事の話を僕なりに解釈すると、「ダブルタイヤの車を持つ人物を色々洗っていて、その中に久間三千年もいたから車の確認を行った。その後、車の目撃者の証言を取り、それが久間三千年の車のものと一致したから、彼が捜査線上に上がった」ということなのだと思う。

しかしそうだとしても疑問は残る。というのも、その目撃者が証言したという19項目の中に、「タイヤにはラインはなかった」というものがあるからだ。これは、「目撃者の証言」としては実に不自然ではないだろうか?

何か見たことを誰かに伝える際に、「◯◯ではなかった」と口にするということは、「正解を知っており、それと比較して『◯◯ではなかった』と言っている」と考えなければおかしいだろう。ラインがあるタイヤを見て「ラインがあった」と証言するのは自然だが、ラインが無いタイヤを見て「ラインが無かった」と証言するのは不自然だと思う。やはりそれは、「『タイヤにラインが無い』というのが正解だと知っている」という状況で無ければあり得ないはずだ。

そしてそのような状況が想定されるのは、やはり、「警察が目撃者の証言を誘導した場合」しかないだろう。そうで無ければ、目撃者が「タイヤにラインは無かった」などと証言する必然性が無いからだ。このようなことを考えてみても、「目撃者の証言には信憑性はない」と考えるのが妥当ではないかと思う。

さて弁護団は再審請求にあたって、DNA鑑定にも着目した。既に触れた通り、当時行われていた、開発されたばかりの「MCT1118法」は、その後の調査により「証拠として採用するには不十分な精度しか担保出来なかった」ことが明らかになっており、この「MCT118法」によって有罪となった「飯塚事件」は、再審によって無罪が確定した。「飯塚事件」でも同様の手法が使われており、やはり「飯塚事件」においても、DNA鑑定の結果は証拠として不適当だと後に認められている。

さて弁護団としては、「目撃者証言が誘導されていた可能性」と「DNA鑑定の不備」という2つを以って再審請求を行った。「飯塚事件」においては、有罪の根拠となった間接証拠は4つあり、その内の2つを覆したと考えていい状況だ。となれば当然再審が認められるはずだと弁護団は考えていた。しかし結果は再審棄却。裁判所は、「DNA鑑定の証拠が無いとしても、他の証拠によって久間三千年の犯行は高度に立証されている」という理屈で再審を退けたのだ。

しかし、冒頭でも書いたが、「飯塚事件」においては直接証拠は存在せず、「1つ1つの証拠は弱い」と元刑事も認めていた4つの間接証拠によって有罪が決まった。そしてその4つの中、1つは証拠能力が無いと判断されたし、1つは疑わしいとなった。にも拘らず裁判所は、「久間三千年の犯行であると高度に立証されている」と主張するのである。

素人でも、「さすがにそれは無理ある主張でしょ」と感じてしまう。弁護士が「そんな仕事をしていて恥ずかしくないのか」と憤るのも当然と言えるだろう。

これも邪推に過ぎないが、裁判所としては恐らく、「既に死刑が執行された事案がひっくり返されたら、日本の司法制度への信頼が崩れる」と考えているのだろう。しかし、実際は逆ではないだろうか。こんなやり方をしていたら、日本の司法制度への信頼が揺らぐと僕は思う。

いや、もちろん、戦略としては裁判所のやり方が正しいことは理解できる。作中で誰かが話していたが、日本の場合「再審決定=無罪」みたいな構図が存在するので、だからもしも「飯塚事件」で再審決定が出されれば、メディアが大きく取り上げるだろう。そしてそうなれば、「今は国民がさほど注目していない飯塚事件」が注目されてしまう。寝た子を起こさないためにも再審請求は棄却するのが安全だと考えているのだと思う。まあ、そう考えるのも当然と言えば当然だが、それでいいはずがないだろう。

さて、DNA鑑定に関して2つほど、印象的だった話に触れておこう。

まず、再審請求の過程で弁護団が「当時の実験データの提出」を求めたのだが、検察から「担当技士が処分した」と回答が返ってきたという。この話に、「足利事件」の再審無罪判決に貢献したDNA鑑定の権威である教授は憤っていた。検察は「技士の私物だから」みたいな理由で処分を妥当と判断しているようだが、教授は「国家公務員なのだし、仮に本当にいち技士の判断で実験データを記録したノートが処分されたとすれば懲罰ものだ」と言っていた。まあそうだろう。この教授は、実験データも試料も、実際には残っていると思うと、かなり踏み込んだ発言をしていた。

もう1つ。これは西日本新聞の取材によるものだ。

まずそもそも「飯塚事件」においては、科捜研とは別に、当時DNA鑑定の権威と言われた帝京大学の石山昱夫が再鑑定を行っているのだが、その際「試料からは久間三千年のDNAは検出されなかった」という結論が出た。しかしその後石山昱夫は、「試料が粗悪だったため検出されなかったのだろう」と見解を変えている。そして彼は後に裁判で、「あなたの検査結果が出ると捜査の妨害になると言われた」と証言しているのだ。

この話を知った中島邦之と中原興平は、改めて石山昱夫を取材した。すると「先生の鑑定結果が出ると困ると言われた」と改めて証言したのだ。そして、その“口止め”を行った警察の幹部が、後の警視総監である國松孝次だと明らかになったのだ。そのため西日本新聞は、既に警視総監になっていた國松孝次に取材を申し込む、という展開になっていく。これもまた、実に興味深い話だった。

このように「飯塚事件」においては、様々に「怪しい点」が浮上している。もちろん、「警察が”グレー”あるいは”ほぼ真っ黒”の捜査を行いはしたが、久間三千年が実際に犯行を行った」という可能性はある。それは永遠に否定しきれないわけだが、しかし少なくとも、「証拠が十分ではないのだから、司法制度のルール上、久間三千年を有罪と断定するのは不可能」と考えるのが妥当だということは、本作を観た人の多くが感じるのではないかと思う。

1992年に起こった「飯塚事件」から、既に32年の時が経っているが、この事件は今も終わっていないだろう。「司法制度への信頼」を揺るがす出来事であり、「事件の真相」は永遠に
分からないとしても、少なくとも日本の司法は「久間三千年の裁判には不備があった」と認めるべきだと思う。

それが出来ないのであれば、日本の司法が信頼を取り戻すことは不可能ではないかと感じる。

本作を観て何を感じるのかは人それぞれだが、「本作を観て何かを考える」ということが大事なのだと僕は思うし、多くの人が知るべき現実だと改めて感じさせられた。

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