【映画】「鶏の墳丘」感想・レビュー・解説

自分の体質として、マジでどうにかなってほしいなと思っていることがある。それは、「『理解不能なもの』に触れると、抗いがたい睡魔に襲われること」だ。

最近の話で言うと、映画『オオカミの家』がそうだった。ちょっと形容詞しがたいぐらい凄まじい作品で、「観ていたい」という気持ちが強くあるのに、その一方で、視覚から否応なしに打ち込まれる「意味不明さ」が、どうにも僕の脳を眠らせようとする。こうなるともうダメで、その凄まじい睡魔に抗ってどうにか目を開けていようとするのが精一杯、内容をとらえることなど不可能になる。

本作『鶏の墳丘』も、大変残念ながら同じ状態に陥ってしまった。ホント、残念過ぎる。

「中国のシー・チェンという個人が、全工程をたった1人で作り上げたアニメ」という情報ぐらいしか知らずに観に行ったのだが、冒頭からまったく何の話なのか理解できず、「抗いがたい睡魔」が発動、83分間ギリギリ目は開け続けていたと思うが、何が描かれているのかは正直よく分からなかった。

しかし、「何が描かれているのかよく分からない」というのは、決して外した捉え方ではないようだ。そのことは、上映後のトークイベントで語られていた話から理解できた。トークイベントがあることさえ知らずに観に行ったが、登壇したのが山田遼志というアニメーション作家。「King GnuなどのMVを手掛けている」と紹介されていたが、今こうして感想を書くので調べてみると、「PrayerX」のMVを作った人らしい。あのMV、良いよなぁ。

配給の人(この人の、聞き手としての能力がかなり高くて驚いた)と2人でトークをしていたのだが、その中で本作について、「中国の検閲を逃れるため、敢えて難解にしている」という説明をしていた。

中国の場合、特に長編映画は中国政府の「検閲」無しには、国内上映も海外上映も不可能だそうだ。難解な作品はより「検閲」を通るのが難しいという(恐らく、「検閲では捉えきれない思想的なメッセージが含まれていると困る」みたいな理由なのだろう)。トークイベントでそう説明された時、「ん?だったら、『敢えて難解な作品にすることで検閲を突破できる』みたいな話は成り立たないなぁ」と感じた。正直、その辺りの理屈はよく分からない。

ただシー・チェンは、「中国の検閲をイリーガルに突破する」というやり方で海外上映を実現させているのだそうだ。その方法が「『合作』と表記する」というものである。シー・チェン1人で作っているので「合作」なんてことはあり得ないのだが、ドイツの映画祭で上映する時は「中国・ドイツ合作」と、日本の映画祭で上映する時は「中国・日本合作」と表記することで検閲を逃れているそうだ。まあ正直、そんなやり方これまでだって誰でも思いつきそうだし、それでいいんだったら中国の検閲ザル過ぎるだろ、って気もするが、まあトークイベントの中ではそんな説明がなされていた。

まあ、理由はとにかく、映像はすこぶる難解である。

そもそも、セリフがほぼ無い。物語は「人間だと思い込んでいるロボット(これが「カニロボ」なんだっけ?)」など、とにかく「機械的存在」ばかり。彼らは喋らないのか喋れないのかよく分からないが、とにかく作中に「セリフ」はほぼ無い。時々ナレーション的に、状況を説明する字幕みたいなものが表記される程度で、あとは「機械的存在」の”動き”のみで物語が展開されていく。

また、山田氏が「音楽的な作り」と言っていたが、本作は「短いテンポの連続」みたいな感じで全体が構成されていく。「音楽的」と言っていたのはたぶん、「Aメロ」「Bメロ」「サビ」みたいな短い区切りの組み合わせで全体が構成されているみたいなことだと思うのだけど、本作『鶏の墳丘』も、とにかく「場面転換」が早い。物語そのものが展開しているのかはイマイチよく分からないのだけど、視覚的な「場面転換」はとにかく早い。「ロングショットがほぼ無く、カットをばちばちに割って視覚的に状況を転換させていく」みたいな感じだろうか。それによる「早いリズム感」みたいなものが印象的だった。いや、睡魔に囚われてるから、あんまり自信はないんだけど。

「3DCGのアニメを1人で作ることの難しさ」について質問された山田氏の回答もとても印象的だった。技術的な進歩によって、テクニカルな部分を1人で全部こなすことの困難さは大分解消されているようだ。トークイベントの中で、よく分からなかったが、「Unity(?)を使っている」みたいなやり取りがあり、恐らくそういうソフトなり何なりを使うと、3DCGを作りやすくなるのだろう。

ただ、テクニカルな部分の困難さが解消されたからと言って、誰でも同じことが出来るというわけではない。その点について山田氏は、「クレジットの『Director:シー・チェン』という表記」を引き合いに出して説明をしていた。

「Director(監督)」というのは、英語的な意味からしても「指示する人」みたいなことであり、普通の映像作品であればそれは実態に合う。しかし『鶏の墳丘』の場合、シー・チェンがすべての作業を1人で行っているのだから、「自分が自分の指示を出す」みたいなことになり、なんとなく「Director」という表記に馴染まない気がすると、山田氏はまずそんな話をしていた。

しかしその一方で、エンドロールにはあらゆる役割が列記され、そこにすべて「シー・チェン」と書かれている。配給の人はこれを「ある種ギャグ的にエンドロールを作っている部分もあるだろう」と言っていたが、山田氏は自身の経験から、「脚本のシー・チェン、モデリングのシー・チェン、◯◯のシー・チェン、◯◯の…と色んなチャンネルを自分の中に持っていて、その個々のチャンネルに指示を出すDirectorのシー・チェンもいる、みたいなことは全然理解できる」みたいなことを言っていた。

そして山田氏は、「そのことが何よりも凄い」という話をしていた。つまり、テクニカルな部分は技術革新によって個人で可能な環境が整ってきたが、だからと言って、「あらゆる役割を担うチャンネルを1人の個人の中に成立させ、それらをコントロールして作品を生み出すこと」はやはり個人の能力として凄まじい、と言っていたのだ。山田氏は「クラシックの指揮者みたいな感じかもしれない」と言っていた。この表現はなるほどとても分かりやすいと感じた。あらゆる楽器の特性などをすべて把握した上で、その全体をまとめ上げる指示をするのが「クラシックの指揮者」であり、シー・チェンがやっていることはつまり、「全部の楽器を引きつつ、指揮者も兼務している」みたいなことなのだろう。

想像するだけで、それはなかなかイカれた状況であるように感じられる。

そんなわけで、まあ自力では全然理解できない作品だったし、否応なしに睡魔に襲われる体質ゆえに全然何のこっちゃ分からなかったのだけど、たまたまあったトークイベントのお陰で、なんとなくシー・チェンの凄まじさをギリギリ理解できた、みたいな感じがある。たまたまトークイベントがある日だったことも含めて、観れて良かったなと思う。

ちなみに、現在渋谷のシアター・イメージフォーラムでしか上映していないが、その上映も2/9まで。で、ギリギリまで調整していたから告知が遅くなったちとトークイベントの中で話していたが、2/8の上映終了後に、なんと来日したシー・チェンがトークイベントに登壇するそうだ。タイミングが合う方は、そのタイミングめがけて鑑賞するのも良いのではないかと思う。

とにかく、「世の中にはまだまだ天才がゴロゴロ存在しているものだよなぁ」と感じさせられる鑑賞体験だった。

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