【映画】「658km、陽子の旅」感想・レビュー・解説

とにかく、菊地凛子の存在感が見事な作品だった。

菊地凛子が演じたのは、20年以上前に父親の反対を押し切って東京に出てきたものの、夢破れたままほぼ引きこもりのような生活をしている工藤陽子。冒頭のシーンは、薄暗い部屋の中で陽子が、恐らく仕事なのだろう「オンラインカスタマーサービスの回答」を行いながら、レンジでチンしたイカスミパスタを食べるところから始まる。生活に必要なあらゆるものをネットで注文し、テレビやネットの動画を観ながら日々時間を潰しているような、そんな生活だ。

そんな工藤陽子という人間の佇まいを、菊地凛子が絶妙に醸し出している。本当に、「ずっと引きこもりで、他人とコミュニケーションが取れない人間なんだろうなぁ」ということが伝わる演技をしているから凄いなと思う。映画は、ほとんど陽子の動向を映し出す物語になっているのに、その陽子は映画の中でセリフがほとんどない。だから、表情とか振る舞いだけでその雰囲気を見せなければならないわけだけど、それが凄く良かったなぁ、と思う。

さて、物語は、そんな引きこもりの彼女が、何故か弘前までヒッチハイクで向かわなければならない、という状況に追い込まれることで駆動していくことになる。普通に考えれば、引きこもりの陽子がヒッチハイクしなければならない状況は想像しにくいが、この物語では、その設定を「なるほど、上手く作り上げたなぁ」と感じる、絶妙なやり方で実現させている。

映画は早い段階で、「陽子がヒッチハイクで弘前まで行かなければならなくなる」という状況に陥り、それ以降は、「陽子が様々な人と出会いながら弘前を目指すロードムービー」として、シンプルな展開になっていく。

ただ、シンプルながら、「引きこもりの陽子がいかに弘前を目指すか」という部分については様々な人間ドラマが含まれていて、しかもそれぞれの人間ドラマも結構リアルなものに感じさせられるから見事だと思う。「引きこもりにヒッチハイクが出来るのか?」みたいな部分も、物語の中で上手くリアリティが保たれるように描いているし、その上で、「ヒッチハイクの過程で、陽子がどのような変化を遂げていくのか」みたいな部分もきちんと構築されている。

物語は、いわば「途中から途中だけを描いている」と言っていいだろう。陽子のそれまでの来歴や葛藤は、まったくではないにせよほとんど描かれないし、また、ある目的を持って弘前を目指しているわけだが、たどり着いた後のこともほとんど描かれない。

そんな「途中」しか描かれない物語なのだが、何故か「工藤陽子という人物の、『途中前』『途中後』の姿が浮かんでくる」感じもあった。

陽子の旅路を見ながら感じていたことは、「陽子のような人が、それなりに穏やかに生きていける世の中であってほしい」ということだ。「働かざる者食うべからず」的な発想は僕の中にもあるが、しかし同時に、それだけでは寂しいなという気持ちもある。もちろん、「やろうと思えば出来るけど、ダルいからやらない」みたいなスタンスの人は感情的にあまり好きになれないが(とはいえ、見分けるのは難しい)、やはり陽子のように「どうしても出来ない」みたいなタイプの人もいる。そして僕は、そういう存在を、社会がもう少し許容してあげられたらいいのにな、と思う。

別に「積極的に支援をしろ」みたいな話じゃない。そうじゃなくて、「そこにいればとやかくうるさく言われないような隙間のような居場所」みたいなものが、もうちょっとあってもいいんじゃないか、という気がしてしまう。引きこもりの人たちにとっては、それが「自分の家・部屋」なわけだが、そうではなく、そういう「隙間のような居場所」が、もう少し社会の中に点在していてもいいように思う。

「大人が公園でずっと座ってても怪しまれない」とか「入れ替え制じゃなかった映画館に一日中居座れる」みたいな形での「隙間のような居場所」が、どんどん世の中から消えてしまっている気がするし、それはそこはかとなく「息苦しさ」みたいなものをジワジワ後押しする存在でもあると思う。「家・部屋以外の場所に一人でいても大丈夫」みたいな余白が社会から無くなれば無くなるほど、「今属している『社会的な居場所』を失ったら自分はダメかもしれない」という恐怖が増すだろうし、そのことは結局、引きこもりとかだけではなくすべての人間にとってマイナスになると思う。

弘前にたどり着いた陽子が、東京に戻って社会の中に「居場所」を見つけられるかどうか分からない。しかし、否応なしにヒッチハイクをしなければならなくなった経験は、彼女に、「自分のような存在が受け入れられる『余白』が、社会の中にまだあった」という気づきを与えたと思う。

それは少しだけ、あくまでも少しだけだけど、工藤陽子という人間を「前進」させる力になるのかもしれない。

映画の中では、「陽子が抱き続けてきたすべての後悔」が、「父親の姿」として浮かび上がるような演出がなされる。それはまさに、彼女の「前進」を阻むものと言えるだろう。その重い「足かせ」みたいなものをまとわせながら旅を続ける陽子のじわりじわりとした変化は、観客の目に「勇敢」なものと映るのではないかと思う。

陽子の未来は、決して明るいとは言えない。やはりまた、「灰色」のような生活に戻っていくことになるんだろう。そんな陽子の日常の中に、僅かでも「希望」のようなものが滲み出ることを祈って止まない。

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