【映画】「夕方のおともだち」感想・レビュー・解説

SMの風俗で働いている女友達がいる。一応書いておくが、僕がそういう店に客として行って、店の女の子と友達になった、という話ではない。そういうこととは全然関係なく友達になった子が、ある日、「私風俗でも働いてるんですよ」と教えてくれたのだ。もちろんだが、その告白以降も彼女がいる店に行ったことはない。

僕の方からあれこれ聞き出すことはせず、相手が話したいと思うタイミングで色んなエピソードを聞いていたのだが、「禁止されている盗撮が発覚して100万円の罰金を払った客」「プレイ中に客が意識を失って大変だった女の子」「マンションをあげると言われたけど断った話」などなど、普段聞けない興味深い話が満載だった。

中でも一番面白かったのは、「台本を書いてくるお客さんの話」だ。SMのお客さんとしてそれが一般的なのかどうか、よく分からないが、その子の話しぶりだと、たぶん珍しいのだろうと思った。正確には覚えていないが、例えば2時間コースだとして、最初の30分は、お客さんが書いてきた台本を彼女が覚える時間になるのだそうだ。

凄い世界だ、と思う。しかしある意味で羨ましい世界でもある。

というのも、「SM」というのは、人間の関係性としてとても「深い」と感じるからだ。

僕は、「家族」「友達」「恋人」みたいな記号があまり好きではない。というのも、関係性に名前がつくと、「その『関係性の名前』として相応しい言動が否応なしに強制されている」ように感じてしまうからだ。一般的には、家族や恋人などの関係性は「深い」と考えられているかもしれないが、僕からすれば、「関係性の名前」で相手を縛っているだけであり、つまり、「関係性の名前」で相手を縛らなければ成立しない程度の「浅い」関係にしか思えない。

SMの場合はそうではない。「私はSだ」「私はMだ」という個人の宣言の方が先に存在する。そして、「S」「M」と宣言した者同士が関わることで、そこで初めて「関係性」が生まれる。

つまり、「個人の宣言」が無くなれば「関係性」も途絶えてしまうのだ。このような関係の方が、私は「深い」と感じる。

このような関係性は別にSMに限るわけではない。例えば映画にしても、「私は監督です」「私は役者です」という宣言があるからこそ、「監督の指示で俳優がラブシーンを演じる」などという、普通にはあり得ない状況が成立する。そして同じように考えると、「家族」の場合は順番が逆だ。「婚姻」などの関係性が先にあって初めて「私は夫です」「私は妻です」という宣言が可能になる。

どちらが好きかは好みの問題だが、私は「宣言から始まる関係性」の方が「深い」と感じるし、そういう関係性にしか興味が持てない。

「宣言が先にある」からこその難しさが、映画の中では随所に描かれていく。冒頭では、「こんな田舎にはもったいないほどのドM」と女王様に評された男が、「どうも最近、かつて感じたような高揚感を得られない」と悩んでいる。女王様は「Mが治ったんだな」みたいに言うが、Mが治ってしまえば「私はMです」という宣言は成立しなくなる。

あるいは、「ユキ子女王様」の話を挙げてもいいだろう。ドMの主人公は、4年前に出会った「ユキ子女王様」のプレイに衝撃を受け、類まれなドMとして覚醒した。しかし「ユキ子女王様」は、出会ってから3ヶ月で行方知れずになってしまったのだ。この映画では、終始ドMが、「ユキ子女王様」のことを忘れられずにいる、という描写が挟み込まれる。

主人公のドMが通うSMクラブでは、所属する女の子がSとMどちらも担当するが、「ユキ子女王様」はその絶対的な存在感から「S専属」が許されていたそうだ。まさに彼女も、「私はSです」と宣言した者だと言っていいだろう。しかしそんな彼女は、「突然の失踪」という形でその宣言を取り下げてしまう。

「私はSです」「私はMです」と宣言する2人がいなければ「SM」という関係は成立しないし、両者の”熱量”が同程度でなければやはり関係性としては成り立たない。ある場面で、

【あなたを殺してしまうかもしれない自分に気がついて、怖くなったの】

というセリフが出てくるが、まさにこれは“熱量”のアンバランスさを示していると言っていい。

そんなわけで僕は、「SM」という特殊な世界が描かれるこの映画を観ながら、「宣言から始まる関係性の奇跡」みたいなものをずっと考えていた。

僕は、興味を抱ける人間のタイプが非常に狭い。大体の人間に、興味が持てない。ざっくり書くと、僕は「考えることが趣味」みたいな人が好きだ。僕がそういう人間で、映画や本の感想をひたすらに書いているのも、「考えることが趣味」だからだ。ある意味で僕は、ブログなどを通じて、「私は『考えることが趣味』です」と宣言していると言っていいかもしれない。

さてしかし、「考えることが趣味」だという人間に出会うのはなかなか難しい。特に若い世代は、子どもの頃から当たり前にインターネットが存在し、Youtubeや様々なSNSに触れている。SNSに触れる時間が長ければ長いほど、相対的に考える時間は少なくなる。だから、「『考えることが趣味』だという人と、ネット上で出会うこと」は案外難しい。

しかしだからと言って、リアルで会えるのかというとそんなこともない。「考えることが趣味」の人は、「一人の時間」を多く確保するものだし、それはつまり、「他人と関わる時間」が相対的に減ることになるからだ。

だから私は、「私は『考えることが趣味』です」と宣言する人となかなか出会えずにいるし、仮にいても、その”熱量”みたいなものが同じくらいかという問題にも直面する。まさにこれは、映画の中で描かれる関係性と相似形を成すと言っていいだろう。

だから僕は、主人公のドMが羨ましいと思う。何しろ彼は、そもそも自分がドMであることに気づいてもいなかったのだ。それはつまり、「私はMです」と宣言することなしに、同等の”熱量”を持つ「私はSです」と宣言する人に出会えた、ということになる。

なんだかとても奇跡的なことではないだろうか。

映画の冒頭で、こんな場面が描かれる。主人公のドMは水道局で働いており、SMクラブに通っていることは衆目の知るところとなっている。就業後の飲みの誘いを断ったドMに対して同僚男性が「今日も行くんだろ」とからかうのだが、それを同僚女性が「セクハラですよ」と咎める。「法に触れているわけではないのだから、個人の趣味趣向は尊重されるべきだ」と。

しかしその後その同僚女性は、ドMに対して「さっきはああ言いましたけど、やっぱりそういうお店に行くのは止めた方がいいんです」と話しかける。あまりに唐突に思えるこの会話の背景が後に理解できるが、それに続けて同僚女性は、「やはり『愛』があっての行為だと思うんです。お金の関係なんてよくないと思います」と言うのだ。

しかし僕は、愛やお金の問題ではないと思う。「関係より先に宣言がある」のか「宣言より先に関係がある」のかという違いであり、僕は前者の関係性の方が価値があると感じてしまうし、人間の関係性に「奇跡」があるとするなら、やはりそれは前者の関係で生まれるだろうと思う。

少しだけ、冒頭で紹介した女友達の話に戻ろうと思う。どういう話の流れだったか正確には覚えていないが、「どうして風俗で働いているのか?」みたいな話をしていたのだと思う。彼女はこんなようなことを言っていた。

「私は『普通の世界』で生きていくのは難しい。みんなが当たり前のように『普通』に振る舞っている空間では、息苦しくなる。でも、風俗の世界は、みんながちょっとずつおかしい。当たり前の『普通』みたいなものはない。だから、そこだと私は息がしやすい」

僕も、彼女ほどの切実さはないけれど、気持ちは分かるなぁ、と思う。僕も、みんなが当たり前のように「普通」に振る舞っている空間では、窒息しそうになる。そして、基本的にこの感覚は、分からない人にはまったく伝わらない、ということも難しい。イルカがタコに、「いいよな、息継ぎしなくていいなんて」と愚痴を零すようなものだ。タコには「水中にいると息苦しくなる」なんて感覚はないだろうから、イルカの苦しみは一生理解できないはずだ。同じように、「普通」の中で息苦しさを感じる、という感覚は、伝わらない人にはまったく理解できない。

映画の中で、主人公の2人が「子どもの頃の虐待」に言及する場面がある。主人公2人も言っていた通り、虐待を受けた子どもがすべて同じような人生を辿るわけではない。しかしやはり、子どもの頃から厳しい環境をサバイブせざるを得なかった人であればあるほど、「普通」への息苦しさを感じるのではないかと思う。

そして、「私は『普通が息苦しい』です」と宣言する者同士が出会えるのなら、それは素晴らしいことだ。

そういう映画だと感じた。


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