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第十五軍のタイ国進駐とビルマ戡定戦の開始

緬甸方面軍宣伝班によるビルマ戦史解説第二回、今回はビルマ戡定(かんてい)戦を担った第十五軍(林)と所属兵団の略記、タイ国進駐と楯兵団宇野支隊によるビルマ領最南端・ビクトリアポイントの攻略までを解説する。


第十五軍の陣容

ビルマ戡定作戦を実際に担った第十五軍(林)であるが、前回の記事で述べた通り、その編成当初は第二十五軍のマレー突進作戦に際し、その後方要域の安定確保を主任務とする軍であり、その主たる戦力は
第三十三師団(弓)
第五十五師団(楯)
の二個兵団であった。
以下に第十五軍司令部と各兵団の概要を述べる。

第十五軍(林)

当初の任務は第二十五軍の担当するマレー突進作戦の背後を固める事が主な任務であり、兵站部隊や通信隊を除いた戦力は僅か二個師団、更に後述するが、開戦当初の時点ではその二個師団の大部分は手許に無い状態であった。
司令部は大阪で編成されたが、司令官は前任の第二十五軍司令官 飯田祥二郎中将(在仏印)
参謀長は諫山春樹少将。
※飯田中将は第二十五軍新司令官 山下奉文中将の現地着まで第二十五軍司令官の任務及び職責も代行した

第三十三師団(弓)

各兵団の詳細な解説は別で述べるが、弓、楯両兵団について軽く述べる。
弓兵団は、昭和十四年三月、仙台師管にて編成完結と同時に中国大陸の中支戦線に派遣。
当初は後方警備などに従事していたが、後に大陸を転戦し数々の作戦に活躍していた。

当時の兵団長は櫻井省三中将。
師団司令部、歩兵団司令部、歩兵三個聯隊、山砲兵、工兵、輜重兵各一個聯隊などから構成されていた(編成当初存在した捜索聯隊は改編により廃止)
大東亜戦争の開戦時は未だ中支にあり、目下バンコクに向けて移動集結の最中であった。

第五十五師団(楯)

初期のビルマ戡定作戦を担ったもう一方の功労者、楯兵団は南方作戦を見据え昭和十六年十月、善通寺にて新規編成された師団である。
尚、開戦当初はその戦力の三分の一(南海支隊)程度が他方面の作戦に参加している状態だった。

師団長は竹内寛中将。
師団司令部、歩兵団司令部、歩兵三個聯隊、騎兵、山砲兵、工兵、輜重兵各一個聯隊などからなっていた。

以上の様に、第十五軍の編成当初の主な戦力は僅か二個師団、更に弓兵団は未だ中支にあり、楯兵団も南海支隊を別方面に展開されるなど、戦力的には誠に心許ないものではあったが、第二十五軍の側背防備には十分な戦力と見られていた。

※ここでは詳述しないが、第十五軍にはこの他に若干の軍通信隊、兵站地区隊などの諸隊があった。

大東亜戦争の開戦


開戦まで

昭和十六年十二月二日、台北にあった寺内大将は、同日一五四六「ヒノデハヤマガタトス(ヒノデは作戦開始日、ヤマガタは八日の隠語)」の軍機電報を受領、いよいよ南方作戦開始の日時が決定された。

第十五軍が支援すべき第二十五軍のマレー突進作戦成功のためには、タイ(泰)国の安定確保が欠かせない。
当時のタイ国は、そのほぼ全土が欧米の植民地化されていた当時の東南アジアにあって、独立を維持していた稀有な国であった。


タイ国周辺と宇野・吉田支隊の行動要図

各地で開戦準備が整う中、タイ国進駐に関しては十二月六日頃までに近衛師団(近衛師団は第十五軍ではないが、前述の通り第二十五軍司令官山下中将の現地着までは第十五軍司令官飯田中将がその任を代行していた)をタイ、インドシナ国境に推進、この間海路からのタイ国進駐を企図する楯兵団の宇野支隊も、既に海上にて待機していた。

日本軍の総意として、タイ国へは平和進駐を望んでいたが、ここでタイ国への平和進駐に向けた外交交渉を始める直前に、タイ国のピブン首相が突如消息を断つ。
第十五軍は平和進駐の為、首相の消息が明らかになるのを待つ方針であったが、南方軍は作戦全般上の考慮から第十五軍に対し、十二月八日〇三三〇、即時進入作戦開始を命令する。

タイ国進駐

国境付近の近衛師団は昭和十六年十二月八日〇七〇〇進入作戦開始、航空部隊もタイ国内の飛行場空襲の準備を整え、武力衝突は不可避と思われたが、同日〇九〇〇ピブン首相はバンコクに帰着、全軍に停戦を命じ、日本大使への面会を求める。

〇九三〇、大使は日本側として軍隊通過の承認、防守同盟、攻守同盟、三国同盟加入の四案を示し、これに対しピブン首相は最も単純な軍隊通過協定を選択し、一五〇〇頃正式な調印を終え、こうして南部タイ方面の宇野支隊方面を除き、日本軍は大過無くタイ国への進駐を終えた。
この協定は後に全般の戦況の進展に伴い、日泰同盟の締結へと進展するのであるが、それはまた別の機会に解説する。

宇野支隊方面の上陸戦闘

宇野支隊(楯兵団の歩兵第百四十三聯隊基幹)、及びバンコクに直接上陸を行った吉田支隊(近衛歩兵の一大隊基幹)方面の航路は前掲の以下の図の通りである。

このうちプラチャップ及びチュンポン方面では中隊長が戦死する程の激烈な抵抗を伴う上陸戦闘が展開され、概ね平和裡に成功した平和進駐の陰に、日タイ両軍に犠牲者を生む結果となった。

なお、宇野支隊はタイ国との停戦が成立した後、現地のタイ国軍の武装を解除した。

ビルマへの第一歩

ビルマ南部の沿岸地域は、非常に細長くタイ国側に伸びており、これを「テナセリウム地区」と称した。
宇野支隊の次の任務は、その後速やかにテナセリウム地区、即ちビルマ領最南端の要衝、ビクトリアポイントを占領する事にあった。

宇野支隊は十二月十四日、ビクトリアポイントを何らの抵抗なく占領。
同地の敵軍はビルマの中心部からは遠く離れた遠隔地である為、日本軍侵攻開始の報せを受けた彼らはいち早く逃げ去っていた。
宇野大佐は更に北方ポーピアンを占領する為、歩兵一小隊基幹の部隊を海上機動により派遣し、無事に同地及び付近の飛行場を占領する。

宇野支隊はこの後、占領地に警戒部隊を残置、主力は一旦タイ国に軍を返し、バンコクへ転進する。

こうして皇軍は、ビルマの地に記念すべき第一歩を記したのである。

本記事のまとめ

・今後ビルマ戡定を担うことになる第十五軍(林)の下には開戦時、第三十三師団(弓)、第五十五師団(楯)などがあったが、弓兵団は未だ中支にあり、楯兵団もその一部を南海支隊として別方面に転用されており、その戦力は甚だ僅少であった。

・開戦直後のタイ国進駐は概ね平和裡に行われたが、宇野支隊方面の一部では激烈な戦闘があった。

・上陸後、宇野支隊はビルマ領最南端 ビクトリアポイントを何等の抵抗を受ける事無く占領し、ビルマへの第一歩を記す。


次回以降の予定

以上の様に、第十五軍の編成と大東亜戦争開戦後の流れを足早に要記した次第であるが、次回以降の記事では、この後第十五軍のビルマ戦線に加わる弓兵団(第三十三師団)に焦点を当てつつビルマ戡定戦を追っていく予定である。
本記事にある通り、ビルマへの第一歩は楯兵団が先であるが、今後のビルマ戦線全体の流れをより把握しやすいのは弓兵団の戦史であると思われるからである。

また、今回駆け足で解説してしまった宇野支隊方面の戦闘は、いずれ楯兵団についての戦史を解説する際に改めて詳述する予定である。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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